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「キミがロッテ初の外国人監督に最もふさわしい」広岡達朗はマイナーの44歳監督に目をつけた…バレンタインが明かす「きっかけは球数制限だった」

posted2023/12/09 06:00

 
「キミがロッテ初の外国人監督に最もふさわしい」広岡達朗はマイナーの44歳監督に目をつけた…バレンタインが明かす「きっかけは球数制限だった」<Number Web> photograph by JIJI PRESS

1994年秋、マイナー3Aの指導者からロッテ初の外国人監督となったボビー・バレンタイン。自伝で語られた当時の秘話とは…?

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ボビー・バレンタイン&ピーター・ゴレンボック

ボビー・バレンタイン&ピーター・ゴレンボック"Bobby" Valentine&Peter Golenbock

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 2005年にロッテを日本一へと導いたボビー・バレンタイン監督。その10年前の1995年シーズンでチームを2位に導くも、第一次政権は1年のみの“短命”で終わった。一体、何が起きていたのか。『ボビー・バレンタイン自伝』(東洋館出版社)で明かされる「広岡達朗氏との出会い」と「監督就任の経緯」とは――。(全6回の第4回/#5#6につづく)

ロッテ監督就任前は3Aの監督

 1993年の冬、私は、弁護士を務めるフィル・ハーシュの家で夕食を摂っていた。テーブルには、ニューヨーク・メッツのGMジョー・マキルベインもいた。メッツは傘下のノーフォーク・タイズ(タイドウォーター)で監督をしていたクリント・ハードルを解任していて、ジョーは私に3Aの監督職に興味があるかと聞いてきた。私はメッツのマイナーリーグ・ディレクター、ジャック・ズレンシックと面接をし、彼は監督職をオファーしてくれた。

 私はノーフォークに行ってタイズの監督をすることになった。タイズのオーナーはとても愛想のいいケン・ヤングで、デイブ・ローゼンフィールド(ロージー)はGM職に一生を捧げ、共同オーナーでもあった。ロージーは野球にのみ関わっていて、実際以上に素晴らしく見える人物だった。130kgを超える巨体を揺らしながら、陽気で賢く、私と選手たちに気を配ってくれた。マイナーリーグに生涯を捧げる人はほとんどいない。大抵は、上のレベルに向かう途中か、下に落ちていく途中なのだ。

そのとき、広岡達朗がアメリカを訪れていた

 私は再び毎日24時間を監督職に捧げることとなり、全力で成長しようとする若い選手たちと時を共にした。彼らは私が行う打撃練習を楽しみにしてくれた。外野でサッカーボールを蹴りながら遊んだこともあった。ワールドカップが行われていたときで、私はゴールキーパーになり、打撃練習中に選手たちは私の横をすり抜けてゴールを決めようと必死になり、私たちは大笑いしながら楽しく過ごした。当時いた選手は、ブッチ・ハスキー、アーロン・レデズマ、ジェロミー・バーニッツ、キルビオ・ベラスなどだった。1994年、我々は67勝75敗の成績で終えた。

 私は知らなかったが、そのとき、日本のパシフィックリーグに所属する千葉ロッテマリーンズのGMが、日本人以外の監督を見つけるという明確な目標を持ってアメリカを訪れていた。彼の名は広岡達朗と言い、セントラルリーグで伝統ある読売ジャイアンツのスター遊撃手として活躍した後、セントラルリーグとパシフィックリーグの両方で監督として優勝を経験した。現役時代は、王貞治さん、長嶋茂雄さんと共にプレーした経験も持っていた。

【次ページ】 広岡さんがアメリカを訪れた理由

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