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「キミがロッテ初の外国人監督に最もふさわしい」広岡達朗はマイナーの44歳監督に目をつけた…バレンタインが明かす「きっかけは球数制限だった」
posted2023/12/09 06:00
text by
ボビー・バレンタイン&ピーター・ゴレンボック"Bobby" Valentine&Peter Golenbock
photograph by
JIJI PRESS
ロッテ監督就任前は3Aの監督
1993年の冬、私は、弁護士を務めるフィル・ハーシュの家で夕食を摂っていた。テーブルには、ニューヨーク・メッツのGMジョー・マキルベインもいた。メッツは傘下のノーフォーク・タイズ(タイドウォーター)で監督をしていたクリント・ハードルを解任していて、ジョーは私に3Aの監督職に興味があるかと聞いてきた。私はメッツのマイナーリーグ・ディレクター、ジャック・ズレンシックと面接をし、彼は監督職をオファーしてくれた。
私はノーフォークに行ってタイズの監督をすることになった。タイズのオーナーはとても愛想のいいケン・ヤングで、デイブ・ローゼンフィールド(ロージー)はGM職に一生を捧げ、共同オーナーでもあった。ロージーは野球にのみ関わっていて、実際以上に素晴らしく見える人物だった。130kgを超える巨体を揺らしながら、陽気で賢く、私と選手たちに気を配ってくれた。マイナーリーグに生涯を捧げる人はほとんどいない。大抵は、上のレベルに向かう途中か、下に落ちていく途中なのだ。
そのとき、広岡達朗がアメリカを訪れていた
私は再び毎日24時間を監督職に捧げることとなり、全力で成長しようとする若い選手たちと時を共にした。彼らは私が行う打撃練習を楽しみにしてくれた。外野でサッカーボールを蹴りながら遊んだこともあった。ワールドカップが行われていたときで、私はゴールキーパーになり、打撃練習中に選手たちは私の横をすり抜けてゴールを決めようと必死になり、私たちは大笑いしながら楽しく過ごした。当時いた選手は、ブッチ・ハスキー、アーロン・レデズマ、ジェロミー・バーニッツ、キルビオ・ベラスなどだった。1994年、我々は67勝75敗の成績で終えた。
私は知らなかったが、そのとき、日本のパシフィックリーグに所属する千葉ロッテマリーンズのGMが、日本人以外の監督を見つけるという明確な目標を持ってアメリカを訪れていた。彼の名は広岡達朗と言い、セントラルリーグで伝統ある読売ジャイアンツのスター遊撃手として活躍した後、セントラルリーグとパシフィックリーグの両方で監督として優勝を経験した。現役時代は、王貞治さん、長嶋茂雄さんと共にプレーした経験も持っていた。