「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
日本一の翌年に途中退任…広岡達朗はヤクルトに何を残したのか? 井原慎一朗が語る“本当の手腕”「広岡さんは勝つための手段を教えてくれました」
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byHideki Sugiyama
posted2023/09/29 17:35
現在はヤクルトOB会の会長を務める井原慎一朗(71歳)。45年前に味わった喜びや監督・広岡達朗への畏敬の念は、今も薄れていなかった
この言葉通り、井原はシリーズ7試合中4試合に登板して好投し、チームの日本一に貢献する。広岡の自著『私の海軍式野球』(サンケイドラマブックス)には、この年の日本シリーズについて、こんな一節がある。
《よく、ツキ男をみつけろと言う。大試合になると、特に目立ってツイている(ほんとうはリズムに乗って好調のピークにある)選手が出てくる。この選手を中心に作戦をたてると成功率が高いというわけだ。私はとくについているという感じはもたなかったが、(先発投手)-梶間-井原というリレーがいいと考えた。公式戦の後半でもそうだったが、いわばヤクルトの“勝ちパターン”だったが、それがそのままシリーズでもあてはまった。》
井原はすでに、広岡からの絶対的な信頼を勝ち得ていたのである。
栄光の翌年――79年シーズン途中、広岡退任
しかし、栄華のときも長くは続かなかった。悲願の日本一に輝いた翌1979年はスタートダッシュにつまずき、開幕直後から下位に低迷。広岡はシーズン途中で退任することとなった。この年のスワローズに一体、何が起きていたのか? 井原は言う。
「ほとんど休みがなかったことも大きかったと思います。日本一になったのもつかの間、すぐに秋季練習が始まりました。優勝した年のオフはサイン会などのイベントに呼ばれるものだと思っていました。でも、まったくその気配がない。どうやら、広岡さんがすべて断っていたと聞きました。翌年のユマキャンプも、投手陣は早めにアメリカ入りしました。この間もほぼ休みはなし。せっかく日本一になったのに、ムチばかりでアメが何もなかった。そこで選手たちの不満が爆発する。それも大きかったと思いますね」
日本一に輝いたとはいえ、スワローズはまだ未成熟なチームだと広岡は考えていた。「まだまだ鍛えるべき点は多い」という考えの下、栄光をつかんでもなお手綱を緩めることはしなかった。選手たちのフラストレーションは募り、疲労のピークを迎える頃に開幕を迎えてしまった――。それが、井原の見立てだった。