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総合商社、広告代理店、コンテンツ会社代表、海外でMBA取得…日本一に挑んだ“偏差値70超え”難関国立大アメフト部「最強世代」の“その後”
text by
山崎ダイDai Yamazaki
photograph by取材対象者提供
posted2023/08/26 11:04
弱小校だったはずの一橋大アメフト部が日本一に挑んだ2007年。その立役者たちのその後の人生は…?
エースランニングバックだった渡辺裕介は笑う。
「強豪校の選手って、みんな自然にアメリカの大学のプレーとかを知っているんですよ。別に勉強したわけじゃない。単純に趣味で、向こうのフットボールを見ているんです。映像を見たり、雑誌を読んだり……それと比べたら、僕らは空いている時間は漫画読んだりしていましたから(笑)。アメフトへの愛じゃとてもかなわない」
実際に渡辺は、件のオールスターを“ドタキャン”するという前代未聞の事態も引き起こしている。ただ楽しんでやるだけのフットボールは、渡辺の中には存在しえなかった。
チームの司令塔であるクオーターバックを務めた加藤良樹も振り返る。
「やっぱり1年生のチームが弱かったところから切磋琢磨してやっていましたからね。僕は性格的にも勝つためにやりたいタイプでもあったので、同期で、チームのみんなでコミュニケーションとりながら壁を越えていくのが楽しかった」
だからだろうか。
彼らは卒業後、ほぼ全員が本格的なフットボールを続けなかった。それは、リーグ戦で上位に入るようなチームではほとんど見ないケースでもある。法政大がクオーターバックの菅原俊をはじめ、多くの選手が社会人で活躍し、日本代表にまでなったケースとは対照的だ。
彼らが卒業後、フットボールを続けなかった「理由」は…?
ディフェンスラインで活躍した千田一臣が苦笑する。
「何回かは社会人リーグのチームの練習に行ったりもしてみたんです。でも、やっぱり大学時代の熱量とは違っていて、なんというか中途半端になってしまった。そういう姿勢でやっている自分も嫌だったし、じゃあやっぱり続けるべきじゃないんだろうなと」
彼らが口をそろえたのが、「大学4年間でやり尽くしましたから」ということだ。あまりに熱すぎた深紅の4年間は、彼らの中の熱を燃やし尽くしてしまった。
もちろんそれは法政大と比べてどちらがいいという話でもないだろう。
一橋大と同じプロセスは法政大にはできなかっただろうし、逆もまた然りである。
ただ、限界まで絞り出した最後の1年間を経てのあの12点差には――技術では説明できないアメフトへの“愛情”があったのかもしれない。
少なくとも常木はいま、そんな風に考えている。