野球クロスロードBACK NUMBER
桑田・清原がいたPL学園を“茨城の公立校”が撃破「おめぇ、何が言いてぇんだ」崩壊寸前だった取手二…木内幸男の“ある博打”
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph byAFLO
posted2023/08/09 11:00
1984年夏の甲子園、清原和博と桑田真澄がいたPL学園は、なぜ決勝で取手二に敗れたのか
ピッチャーの石田をライトの柏葉勝己とスイッチしたのである。狙いはこうだ。
「1回、石田を冷静にさせたかったのと、『またPLのバッターに投げたいんだ』って気持ちを蘇らせたかった」
これはあくまで精神論だ。戦術面から言えば、この采配は賭けだった。
「打ってきたら俺の負け」
迎えるPL学園の鈴木英之は左バッター。そこに左ピッチャーの柏葉をぶつける。木内は監督心理を読み、相手指揮官の中村順司はきっと送りバントをしてくると睨んだ。
「監督さんっていうのは、どんなに強いチームでも接戦の後半になったら安全を期して送りたくなるんだ。自分もそうだから。『左に左を出したら絶対に送ってくんな。打ってきたら俺の負け』と思ってましたから」
読みは的中した。ホームベース前に力なく落ちたボールをキャッチャーの中島彰一が素早く処理し、セカンドフォースアウトで1アウト一塁。ここで木内はライトの石田を再びマウンドへ戻した。監督の狙い通り息を吹き返したエースは、4番・清原を空振り三振、5番・桑田をサードゴロと強力クリーンアップを仕留め、ピンチを脱したのである。
そして延長10回。1アウト一、二塁のチャンスで、中島が初回から狙い続けていた桑田の高めストレートを強振して勝ち越し3ランを放ち、取手二は今度こそ優勝を大きく手繰り寄せた。しかし、木内が勝利を確信したのは、この一発の直後にもぎ取った1点なのだという。
「あん時の甲子園球場はラッキーゾーンがあってちっちゃくて、すぐホームランが出るおっかねぇ時代でしたから。あっちは『逆転のPL』なんて呼ばれたこともあんだし、やっぱり攻め込まれるのが嫌だった。だから、ホームランのあとに1点余計に取れたことが大きかった。『もう、追ってこねぇよ』って、子供らを守りに出せましたから」
「ほんとに勝ちたかったのは、取手のチーム」
前年夏の覇者の戦意を削ぐ、周到な4点目。10回裏もマウンドに上がった石田はPL学園を無失点に抑え、チームは歓喜の瞬間を迎えた。
これが、まだ「マジック」と呼ばれていなかった頃の、木内の手綱さばきである。
茨城県に初の大旗をもたらした木内は、間もなくして常総学院へと移った。それから2度、日本一となった名伯楽は、懐かしむように原点を掘り返していた。
「ほんとに勝ちたかったのは、取手のチーム。あそこで1回勝てたから、次に行っても『このチームでも』って気持ちになれました」
〈「20年前の甲子園…常総学院の伝説」編へつづく〉