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桑田・清原がいたPL学園を“茨城の公立校”が撃破「おめぇ、何が言いてぇんだ」崩壊寸前だった取手二…木内幸男の“ある博打”
posted2023/08/09 11:00
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph by
AFLO
取手二を率い1977年夏に甲子園初出場を遂げ、78年と81年の夏にもチームを全国へ導いた木内幸男が83年に新設する常総学院から野球部の監督要請を受けたのは、その前年の82年だったのだという。
木内は申し出を一度、断っている。ただし、それは拒否の姿勢を示したものでなく「今は無理」という意味が込められていた。
生前、木内は当時を懐かしむように取手二時代の記憶を紡ぎ出してくれたことがあった。
「あの時はちょうど、土浦から野球がうまい連中が私の下で野球がやりてぇって取手まで来てくれることになってたんです。『こいつらが卒業しねぇと俺は次に行けねぇんだよな』と。だから、優勝したから常総学院に行ったってわけじゃねぇんです」
野球がうまい連中――それが、のちにキャプテンを務める吉田剛やエースの石田文樹ら、84年夏に全国制覇を果たすメンバーだった。
PLに大敗、集団退部…崩壊寸前だった夏前
1年生から主力として経験を積んでいった彼らは、とにかく個性的だった。
吉田は曲がったことが嫌いで、決めたことは必ずやり抜く芯の強さがあった。石田はとにかく負けず嫌い。木内が「ちゃんとストライクを投げろ!」と活を入れるとそっぽを向き、苛立ちを露わにするような選手だった。
そんな個性派軍団は、木内が「中学のオール茨城」と評するだけあってプレーも傑出していた。吉田たちが2年時にセンバツ初出場すると、3年生となった翌年にも出場しベスト8まで勝ち進んだ。
このセンバツでの取手二はダークホースに挙げられるほど注目されていたものの、全国の壁はまだ厚かった。チームがそのことを痛感することとなったのが、夏の大会前に行われたPL学園との招待試合である。
結果は0-13の完敗だった。
この試合で1安打完封され手も足も出せなかったエースの桑田真澄と4番バッターの清原和博。1年生の夏から主力として日本一を経験し、高校野球のアイコンになりつつある2年生を中心とするチームに翻弄された取手二はこの時、フラストレーションが溜まっていた。
エースの石田が右肩を痛めていたのである。夏の県大会でも満足に投げられるかどうか? その不安と焦りがチームに蔓延し、空中分解寸前だったのだという。それは、3年生の集団ボイコットとして顕在化するほどだった。