「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
「お前なんか他の球団に行ったら…」広岡達朗はなぜ若松勉に厳しく接したのか? “ミスタースワローズ”を発奮させた「缶ビール事件」の真相
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byKYODO
posted2023/07/13 17:28
1977年の若松勉。ヤクルト初優勝の前年にあたるこの年、厳格な指揮官・広岡達朗との間で「缶ビール事件」が起きた
若松は言う。
「バッティングについては何も言われなかったけれど、守備のことはいろいろ教わりました。ボールに対して猛ダッシュすること。それをすくい上げて、カットマンまで低いボールを返すこと。それは何度も、何度も練習しました。そしてセンターへのコンバートを命じられました。肩も強くないのにセンターに回されて、“どうして僕がセンターなんですか?”と揉めたこともありました(笑)。でも、広岡さんによると、“センターは外野の要だから、お前がチームを引っ張っていけ”ということでした」
「若松に賭けた」広岡の決意
広岡は若松に賭けていた。チームにはびこっていた「ぬるま湯体質」を変えるには、頼りになるチームリーダーの存在が不可欠だった。そして、それは若松以外には見当たらなかった。1979年に発売された広岡の自著『私の海軍式野球』(サンケイドラマブックス)から引用したい。その名もずばり「若松に賭けた」という箇所である。
《いちばん先に“やる気”を見せてくれたのは若松である。野球に取り組む姿勢もいいし、ものの考え方もしっかりしている。技術はいうまでもない。ただ、この若松にしても、迷いはあったと思う。
例えば、彼の脚である。慢性的な肉ばなれに悩んできた若松のいちばん苦手は、脚の筋肉に鋭い衝撃を与えるダッシュ、ランニングである。彼は再起不能の故障をおこすことを恐れて、それまではかなり脚をかばっていた。しかし、オフのトレーニングで、私は若松もどんどん走らせた。ダッシュもやらせた》
もしも、故障によって致命的なダメージを負うことになればチームはもとより、若松自身の選手生命も絶たれることになる。しかし、広岡は「私も若松も賭けたのだ」と前掲書で述べている。現在では考えられない一か八かのギャンブルである。若松が言う。
「でも、故障しませんでしたね(笑)。むしろ、それまでよりも逆に強くなった。それからはあまり肉離れすることもありませんでしたから。結果的に自分を鍛え直すことになって、むしろよかったと思いますね」