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野村克也が“史上最強ピッチャー”と断言「38勝4敗の男」…直前で消えた“幻の日本人メジャー第1号”杉浦忠の伝説「メガネ姿のアンダースロー」
text by
太田俊明Toshiaki Ota
photograph byJIJI PRESS
posted2023/05/29 18:05
1988年にダイエーに身売りされるまで南海ホークスの本拠地だった大阪スタヂアム
杉浦はこの年、371回1/3という、現代の投手のほぼ2倍にあたるイニングを投げながら、わずか35個しか四球を与えていない。1試合当たりにすれば0.85個と、1個に満たない驚異的な数字である。とはいえ、野村によれば、杉浦には史上最高の制球力と言われた稲尾ほどの制球力はなかったという。この証言からも“真ん中に投げても打たれない”投球だったのだろう。
ひとりで貯金34。杉浦が現代の投手のように、十分な間隔をあけて、休養十分な状態でマウンドに上がり続けたらどんな数字を残したのか――との思いはあるが、あくまで比較可能な実績値を優先して、山本の王座防衛としたい。
幻の日本人メジャー第1号
じつは杉浦がプロ3年目だった1960年シーズン終盤に、メジャーで優勝争いをしていたシカゴ・ホワイトソックスから南海に「杉浦をレンタルしてほしい」という正式依頼があった。
1958年に開催された日米野球でセントルイス・カージナルスを2点に抑えて完投勝利した杉浦の名は、アメリカでも知れ渡っていたのだ。
南海の鶴岡一人監督は「日本野球のためになる」と快諾して、杉浦はパスポートをとり、ドルを入手して渡米寸前までいったが、まだ残り試合を全勝すれば優勝の可能性が残っているという球団首脳の反対で、直前で中止になってしまった。
そう考えると、1964年に日本人で初めてメジャーで投げた村上雅則や、1995年にドジャースからデビューした野茂英雄に先んじた“日本人メジャー第1号”になっていた可能性もある。実現していればアメリカでどんな成績を残しただろうか。「野茂のトルネード」のように「杉浦のアンダースロー」も旋風を起こしただろうか……。想像は尽きない。
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