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野村克也が“史上最強ピッチャー”と断言「38勝4敗の男」…直前で消えた“幻の日本人メジャー第1号”杉浦忠の伝説「メガネ姿のアンダースロー」
posted2023/05/29 18:05
text by
太田俊明Toshiaki Ota
photograph by
JIJI PRESS
長嶋茂雄と立教で同期…杉浦忠とは?
WBCの優勝で例年以上に盛り上がりを見せるプロ野球だが、日本野球の黎明期は東京六大学野球の方がはるかに人気があった。プロ野球が人気・実力ともに頂点に立ったのは、“ミスタープロ野球”長嶋茂雄の登場によるところが大きいと言われている。
その長嶋と立教大の同期で、投打の両輪として活躍した杉浦は、同大の黄金時代を築いたスーパースターだった。卒業後は、二人揃っての南海入りが確実視されていたが、長嶋が突然巨人入りを表明。親友だった2人は、セ・リーグとパ・リーグに分かれて日本一を争うライバルになった。
杉浦は、ルーキーイヤーの1958年に南海の開幕投手を務めて、27勝12敗、防御率2.05でパ・リーグの新人王を獲得。一方の長嶋も、新人ながら巨人の四番を張り、本塁打29、打点92、打率.305で、本塁打、打点の2冠に輝き、打率と盗塁も2位。当然のようにセ・リーグの新人王を獲得した。
当時セ・リーグでダントツだった巨人と違い、南海はパ・リーグで西鉄との戦いを勝ち抜かねばならなかった。知将・三原脩率いる西鉄は、投で鉄腕・稲尾和久が大エースとして君臨すれば、打では豊田泰光、中西太、大下弘といった歴史に名を残す強打者が並び、日本シリーズでセ王者・巨人を1956、57、58年と3連破するなど無敵を誇っていた。
さらに杉浦は1年目で新人王こそ獲得したものの、西鉄・稲尾とのエース対決では負け越した。シーズン終盤の優勝を争う大事な一戦でも主砲・中西に「三塁手が捕れそうな当たりがスタンドへ。あんな凄い打球を見たのは後にも先にもありませんでした」(『僕の愛した野球』杉浦忠/海鳥社)という強烈なホームランを浴びて、南海は西鉄に次ぐ2位に終わった。
雪辱を期して、オフに猛練習を積んで臨んだ2年目の1959年に杉浦は、野村の言う「1シーズン限定なら、この年の杉浦が最強」という投球を繰り広げたのである。