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「史上初の父子二代ダービージョッキー」競馬に殉じた男・中島啓之の“酒と仲間”「べろ助になると、つぎの日は寝坊するわけですよ」
text by
江面弘也Koya Ezura
photograph byJRA
posted2023/05/27 17:00
1974年、コーネルランサーで日本タービー初勝利した中島啓之。1985年のダービーでの騎乗を最後に42歳で逝去した
「じょうずな騎手は冷静でミスがすくない。負けられないレースで、結果をだす。中島さんはそういうジョッキーなんです」
だから、'74年のコーネルランサーのダービーでは「なんとなく、勝つと思っていた」と言う。ダービーが近づくと、府中の厩舎は雰囲気が変わり、異様な緊張感につつまれる。皐月賞2着のコーネルランサーに乗る中島も次第に無口になっていった。それを小島は近くで見ていた。
ただ、この年はキタノカチドキという大本命馬がいた。皐月賞まで7戦無敗。皐月賞でシード馬(人気が集中しそうな馬を単枠に指定する制度)の第一号になった馬だ。騎手は関西の名手、武邦彦。武もまた酒好きの騎手で、関東に来たときには小島はいつも一緒に呑んだ。そこに中島も加わることもあった。酒が友を呼んだ。
キタノカチドキは、1頭になると気を抜いたりする、気性の面でむずかしい馬だった。だから、武は勝負所では横に馬を置き、最後にぐいと前にでる。それを小島は「武邦さんの名人芸」と評した。
「おれのときは山口百恵だから」と自慢していた。
皐月賞につづいてシード(7枠19番)されたキタノカチドキは、ダービーは3着に負けた。ゴール前はコーネルランサーとインターグッドの激しい競り合いとなり、鼻差でコーネルランサーが勝った。
「武さんのこともあったからな。あの日は、たぶん、呑んで騒ぐようなことはしなかったと思う。やったな! と中島さんに合図をした記憶はあるけど」
小島太は述懐する。このダービーには後日談がある。騎手仲間で呑んでいてダービーの話になると、中島はいつも「おれのときは山口百恵だから」と自慢していたという。当時、優勝騎手には車が贈られ、歌手や女優がプレゼンターだった。
「中島さんがコーネルランサーで勝ったときは大変だったよ」
そう言うのは小島浩三である。小島太の6歳下のいとこで、太を頼って北海道から上京、競馬の社会にはいった。太とおなじ高木良三厩舎の厩務員になり、高木が亡くなったあと奥平真治厩舎に移った。
「コーネルランサーは勝又(忠)厩舎の馬なんだけど、中島さんが『おれの宴会やるから来いよ』と言って奥平厩舎の皆を集めて、一杯呑みに行くぞってね。外厩で、奥平厩舎の近くに勝又厩舎があってね。あのときはすごかった」