Number ExBACK NUMBER
「史上初の父子二代ダービージョッキー」競馬に殉じた男・中島啓之の“酒と仲間”「べろ助になると、つぎの日は寝坊するわけですよ」
text by
江面弘也Koya Ezura
photograph byJRA
posted2023/05/27 17:00
1974年、コーネルランサーで日本タービー初勝利した中島啓之。1985年のダービーでの騎乗を最後に42歳で逝去した
中島啓之の話になると、すべてが酒に結びついていく。後輩の面倒見がよく、仕事が終わると友人を誘って酒になる。中島も吉永正人も普段は口数がすくなくまじめな男だが、皆で呑むときには、はしゃいで悪さをすることもあった。
「中島さんと吉永さんは、悪さをしても悪く言う人いなかったし、マスコミにも悪く書かれなかった。なんで、おれだけ悪く言われたんだろう」
嫌がる中島を強引に病院へ「帰りに、銀座に連れて行くから」
そう言って笑う小島太は、中島とは「死ぬ寸前までの付き合い」だった。ともだちというより、家族や兄弟のようでもあり、プライドも見栄もなく、すべてを見せられた。そんな関係だった。
「中島さんはよく調教に出遅れたよ」
小島浩三はなつかしそうに言った。
「普段の仕事ではまじめな人だけど。太もそうだけど、中島さんも、べろ助になると、つぎの日は寝坊するわけですよ。あのころはまだ、ひとり者だったからね」
尾形藤吉厩舎など内厩の大厩舎は、朝、厩務員が馬を引いていくと、乗り役がずらりと並んで待っていた。しかし、奥平厩舎のエース、中島は調教時刻になっても起きてこない。小島浩三は中島の家まで起こしに行ったことが何度もあったという。
「起こしても起きないんだ。まあ、あれだけ呑んでいればね」