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あの“ペッパーミル騒動”なぜ賛否が割れた? 東北・佐藤洋監督「初めての甲子園で思ったのは…」「ぜひ議論に」本当の問題点を考える
text by
氏原英明Hideaki Ujihara
photograph byJIJI PRESS
posted2023/04/11 11:01
高校野球はこれからも教育の一つでしかないのか、それとも、楽しむものに転換していくのか
「教育的指導」はいつから?
スポーツは元来、楽しむものである。語源はラテン語の「デポルターレ」で、「気晴らし」「遊戯」と解釈される。この言葉のとおり、スポーツは非日常的なもので、誰からの強要を受けるものではない。強制されるものではなくやりたい人だけがやるという、自発的、主体的な行為なのだ。
しかし、日本では様相が異なる。「気晴らし」だったはずのスポーツを、学校組織の中に入れたことで意味するところが変わった。つまり、教育的な要素を含むようになったのだ。
もちろん、部活動自体は生徒の自発性、主体性をベースに成り立っている。強制的に入部するものではなく、個人の意思によってなされるものだ。それでも、学校の中にある以上は教育の領域を抜け出すことができないのだ。
こうした部活制度のあり方に疑問を感じる指導者も少なくない。千葉県市川市にあるサッカークラブ「市川ガナーズ」を運営する幸野健一氏もその1人だ。サッカーコンサルタントとして世界42カ国の育成機関を回った経験を生かし、日本で理想のチームを作り上げている。幸野氏は拙著「甲子園は通過点です」(新潮新書)の中で、こう語っている。
「日本にとってのスポーツは運動、つまり体育になっていると感じています。戦後の70年前に、国民を健康にさせるために運動をさせようと考えて、学校にスポーツ施設をどんどん作った。国民を楽しませようとしたわけじゃないんです。本来、スポーツは『デポルターレ』(楽しみ)という言葉の語源があると言われているように楽しむためのものであるはずだったのですが、学校に入れたことによって教育にすり替わってしまった。忍耐や努力、我慢、礼儀という教育的な要素になったのです。小学生で体育をやり、中学生で部活をやる。これが日本人のデフォルト。それはスポーツではなく体育と言えるのではないでしょうか」
幸野氏が指摘するとおり、スポーツが学校に組み入れられた点は非常に大きい。街のクラブチームであっても、プロ野球球団であっても、この「教育的指導」から抜け出せないケースが多い。
今年のプロ野球キャンプでも見られたが、選手個人が主体的に取り組んできたことであっても、「そのやり方をやめろ」と監督が言えば、中止しなければいけない。学校での先生と生徒の関わり方が、そのままプロスポーツにの世界にまで伝播し「教育的指導」が行われてきた背景があるのだ。
佐藤監督が抱えていた“疑問”
そうした指導方法は近年、少しずつではあるが見直されてきている。選手の主体性よりも指導者の意思のみによるチーム運営では、スポーツ本来の意味を損なう、と。
そして、その活動に率先して取り組んできた人物こそ、東北高の佐藤監督だった。