Sports Graphic Number MoreBACK NUMBER
「何これ、筋肉がパサパサだ」松中信彦が“平成唯一の三冠王”になれた理由とは? “大酒呑みの九州男児”を変えた衝撃の一言
text by
永谷脩Osamu Nagatani
photograph byKYODO
posted2022/09/30 17:02
平成唯一の三冠王として、功績を称えられてきた松中信彦。その過程には知られざる苦労がある
今年、チームは大きな変化を迎えた。中心選手である小久保裕紀を巨人に放出したのだ。昨年、怪我で戦列をはなれた小久保に代わって4番を打った松中だが、気持ちとしてはあくまで、“代理の4番”だった。しかし、今年は違う。
「去年、4番というものに座って、そのプレッシャーがどんなものか、経験できたけど、どこかで、また小久保さんが戻ってくれば、という思いも正直、あったんです。でも、もういない。キャンプでお会いしたとき、“マツは自分のバッティングをすれば結果を残せる”と言ってくれました。小久保さんに負けないように、と思ったけど、プレッシャーはすごいものがあった。
ただ、新聞やテレビを通して僕のことを見ていてくれると思うと張りが違いました。小久保さんは巨人にいって40本の本塁打を打ったけど、僕もやることはきちんとやりましたよという感じですかね。三冠王が決まったときもすぐに電話をくれて、“お前だからできた”と言ってくれました」
オープン戦を3割5分3厘、4本塁打と好調に終えた松中は、そのままの勢いで、ペナントレースに突入した。順調に来た4月、5月。ところが、6月が過ぎ、7月を迎えると、突然、打てなくなった。7月の月間打率は2割4分7厘。
自分は4番としての責任を果たせるのか、という不安に襲われたという。
「自分のバッティングを忘れてしまっていた」
「苦しかったですね。ほんと、自分のバッテイングがどういうものかすっかり忘れてしまっていた。不安で不安でしかたがなかったけれど、自分の姿っていうのは、若い選手たちが見ているので、それは悟られまいと思った。チームに影響しますから。それが4番を打つ男の仕事だと思っていたし、体調が戻ってきたらば何とかなると信じていた。
周りは僕の不安に気付いていなかったと思います。監督は“怒らないと流れが変わらない”とよく言うんです。怒る態度を見せてくれ、と。だから、結果が悪かったときは、ベンチ裏やロッカーで大声を出して怒りました。怒鳴ったり、怒ったりすることで集中できたし、気持ちが切れることもなかった。
三冠王を意識したのは8月に入ってからのロッテ戦の後くらいだったと思う。チームが3連敗した後のミーティングで監督から名指しで“三冠王というのは狙えるときに狙っていかないと獲れるものじゃない”って強い口調で言われたんです。それまで、僕の気持ちの中ではチームが勝つということが第一であって、それにタイトルがついてくればいいなあ、ぐらいの感覚で思っていた。
でも、チームが連敗しているときにその話を聞いて、こういうチャンスが自分の野球人生の中で何度あるかわからない、それならば、自分が結果を出すことでチームを引っ張っていくのもありかなと思えた。意識が変わったのは確かですね。9月に入るとストライキ騒動とかいろいろあって、精神的にきつかった。でも、球界がよくなるなら、自分の三冠王はいらないと言ったのは本音でした」