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“監督不在の野球部”が17年で甲子園準V…下関国際・坂原監督の「弱者が強者を飲み込む野球」はいかに生まれたか?
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph byHideki Sugiyama
posted2022/08/23 11:04
甲子園準優勝に導いた下関国際・坂原監督
「私自身、高校、大学、社会人と決してエリートではなく、力のない選手でした。下関国際でも部員のいないところからスタートしましたから、野球部が大きくなっていくには必要な言葉だったんです。ですから、就任当初から掲げ、今も選手には常に話しています」
広島国際学院高から広島国際学院大を経て、社会人野球のワイテックでは27歳までプレーした。坂原が言うように、球歴は華やかではない。ただ、野球への熱量だけはあった。
現役引退後に母校の大学でコーチをしたのち、坂原が教員免許取得のため下関市の東亜大に通うこととなった。下関国際の存在を知ったのが、ちょうどこの時期だったという。
「当時は部員も少なく、不祥事もあって監督が不在という噂を耳にしたものですから、当時の校長先生に手紙を書きまして」
坂原がストレートに想いを綴る。
<私に何かお手伝いできることがあればさせてください>
監督に就任した05年8月当時の部員は11名。グラウンドには雑草が生え、道具も満足に揃っていないなかでのスタートだった。「できないまま帰らせると、次の日が苦しくなる」と、できるまで選手に教え込んだ。過酷さから練習に来なくなった選手を家まで迎えにいったりするのは、「就任当初はしょっちゅうでした」と坂原は笑う。
「やり切ることを教えたかった」
根底にあったのはそこだ。だから、常に選手と向き合えたし、公式戦はおろか練習試合でもまともに勝てず、滑稽だと周りから嘲笑されたとしても、「甲子園に出る」という目標を口に出し続けた。
そして弱者は、強者をも飲み込むほどのチームとなった。
17年の夏に悲願の甲子園初出場を達成。通算3度目となった18年夏には、初勝利を含む3勝を挙げベスト8まで進出した。
「やり抜く姿勢」がジャイアントキリングを生んだ
新たな歴史を築くと燃えた、今年の夏。