Number ExBACK NUMBER
21年前、“ミラクル近江”の甲子園…あの鉄壁継投「三本の矢」はなぜ生まれた? 監督、主将がいま明かす“快進撃の裏側”
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph byNanae Suzuki
posted2022/08/07 06:01
2001年夏の甲子園、近江高校は滋賀県勢初の決勝進出を果たした。監督&当時の主将が語る、あのミラクルの舞台裏とは
エースの竹内はボールに勢いがあり、ストレートで押せるピッチャーだったが、試合序盤を完璧に抑えていても突如乱れる登板も少なくなかった。だから、相手バッターが竹内のボールに目が慣れ、対応してくると予想される中盤から島脇を投入する。正捕手でもある小森が「2メートルくらい手前でバウンドする」と、捕球に苦心したほどキレのあるスライダーを持ち、冷静なマウンド捌きもできる左腕は、多賀からも「一番のポイント」と信頼されていた。ここで流れを与えず、チームが「努力の男」と認め、安定感のある清水に9回のマウンドを託す――。
6月中旬から、練習試合では必ずこの継投を用い完成度を高めてきたなか、小森には確信に近い手応えを抱いた試合があった。
「夏の大会前の最後にやった富山商業との練習試合で、3人が投げて1-0で勝ったんですね。自分でも鳥肌が立つくらいのゲームで、チームとしても自信が持てました」
夏の滋賀大会初戦。近江は格下の玉川に3-0で勝利したが、その一戦を「苦戦」と受け取る声も多かったという。当の近江からすれば、3人の継投で完封できたことで、よりチームの力を信じることができた。準々決勝まで3試合連続シャットアウト。盤石リレー誕生のきっかけを与えてくれた八幡商との対戦がなく、力を試す機会は失われたものの、近江は5試合4失点の安定感で滋賀県を制した。
甲子園開幕前、我に返った「OBの言葉」
絶対的なストロングポイント、「勝利の方程式」。多賀いわく、実は甲子園では他の投手起用を考えていたと明かす。
「甲子園では島脇を頭から行かせようと思っていたんです。やっぱり、一番力があるピッチャーでしたから」
結果的にこのプランは実現しなかった。
甲子園の開会式前日。近江の宿舎に神戸製鋼でプレーしていたOBの中尾周作が陣中見舞いに訪れ、こう激励された。
「予選では自分たちの野球をやってきたのに、都市対抗では相手チームの情報を入れすぎて野球が変わって、負ける。そういう痛い目を何回も味わっています。先生、今年の近江の素晴らしい継投を甲子園でも貫いてください」
教え子の言葉に、多賀が我に返る。