- #1
- #2
Sports Graphic Number MoreBACK NUMBER
「てめえ、ぶつけやがってこの野郎」やんちゃだった“補欠”の球児が甲子園37勝の名将になるまで「甲子園に出た監督で一番球歴のない男です」
text by
加藤弘士Hiroshi Kato
photograph byYuki Suenaga
posted2022/08/05 17:00
日大三高野球部、小倉全由監督。1997年に同校監督に就任。春7回、夏10回出場。2001年と11年の夏の甲子園では優勝。甲子園通算37勝
ハイレベルな競争。投手こそ早々に断念した小倉だが、三塁手として頭角を現す。入学してから1カ月。同期の中で最も早く練習試合に出場した。順風満帆だった。
「サードを始めて1週間ぐらいしたら、顔面にボールが当たって、前歯が抜けて顔も腫れちゃって。当日は医者に行きましたが、翌日からは腫れていても練習しました。やらなきゃ負けちゃう思いが強かった。打撃ではバットに当てるのが上手かったんで、ベンチに入れて。初の練習試合は、代打で投ゴロでした。試合後に陰で上級生に呼ばれて。『何で打てねえヤツがベンチに入ってんだよ』と、いびられてね。『こんなヤツに負けるか』と思っていたんだけど……」
好事魔多し。夏の東京大会の前だった。ノックを受けていた小倉は、飛び込んで捕球を試みたところ、左肩を脱臼してしまう。そこから脱臼癖がついた。1年秋にはベンチ入りしたが、2年春にはベンチ外。練習を頑張るほど、度重なるケガに見舞われた。
小倉は自らの肩を叩いた。「なんでなんだよ!」。悔しくて涙があふれてきた。初めて味わう、青春の蹉跌だった。
「やってらんねえ」監督と選手の溝ができたまま…
当時の監督・山田隆夫は「一生懸命やれ」「練習で手を抜くヤツはダメだ」が口癖。小倉が思い通りにならない中でも、前向きに練習へ取り組む姿を見ていた。2年秋の新チームからは副将を託され、三塁コーチャーズボックスが主戦場になった。
「よく叱られましたね。腕の回し方から状況判断……点差やイニング、次の打者などが全部頭に入っていなきゃダメだって」
練習は厳しかった。小倉は背中も痛めた。送球がうまくいかない。山田は怒声を浴びせた。「放れないヤツは、使わねえよ!」
「自分もボールを叩きつけて、『ふざけんな!』って監督に食ってかかって。同期のヤツらがみんな『やべえよ』ってオロオロしてね。でもチームをまとめる力は、買ってくれていたんでしょうね」
当時の日大三は短いスパンで監督が交代していた。学校やOB会は結果を求め、ダメならすぐに首をすげ替えた。指揮官は目先の成果に焦り、選手と十分な信頼関係を築けていなかったと、小倉は回想する。