- #1
- #2
Sports Graphic Number MoreBACK NUMBER
「てめえ、ぶつけやがってこの野郎」やんちゃだった“補欠”の球児が甲子園37勝の名将になるまで「甲子園に出た監督で一番球歴のない男です」
posted2022/08/05 17:00
text by
加藤弘士Hiroshi Kato
photograph by
Yuki Suenaga
「あの頃の自分はバカ野郎だったんです(笑)」
<母校を2度の栄冠へ導いた西東京の名指揮官。家族のようにナインと寝食を共にし、熱く寄り添う“小倉流”指導の源泉には、かつて球児だった3年間で貫いた「一生懸命」と、未だ残る「後悔」があった。>
「てめえ、ぶつけやがってこの野郎」
神宮球場の打席でそう叫ぶ球児がいた。バットをグラウンドに叩きつけ、マウンドへと向かう。騒然とするスタンド。背番号13の高校3年生は次の瞬間、我を取り戻し、一塁へと走った。あの時、誰が想像しただろうか。この若者が後に甲子園通算37勝、そして夏2度の全国制覇に導く、高校球界屈指の名将になるとは――。
1975年7月25日、日大三の夏初戦となる東東京大会4回戦・都工業高専戦。大量リードで巡ってきた代打の打席は、死球で終わった。試合は3回コールドの15-0で勝利。小倉全由(当時の姓は斉藤)にとって最後の夏、唯一の出場機会だった。
「あの頃の自分はバカ野郎だったんです(笑)。3年の夏、自分は元気が取り柄の副将だったんですが、控えの内野手で、三塁コーチャーを務めていました」
千葉県東部、一宮町の出身。一宮中の3年先輩には、はとこでもある元中日監督・森繁和が、同級生にはタレントのあご勇がいる。中学の野球部ではエースで4番のキャプテンだった小倉に、日大野球部に在籍する6歳上の兄・博活は、日大三への越境入学を勧めた。
「三高は自分が中2の春にセンバツで優勝、中3の春に準優勝していましたからね。雲の上のような学校でした。兄は日大で下級生の頃、三高の選手たちとよく紅白戦をやっていたんですよ。それで『やるんならレベルの高いところがいいぞ』と言われて、自分も東京に出ることになったんです」
「顔面にボールが当たって、前歯が抜けて…」
センバツ2年連続ファイナリストの名門には、全国から有望選手が集まっていた。小倉も将来を嘱望された「クラブ推薦」25人の1人として、特別枠で指導を受けた。
「自分たちの代は甲子園で春夏連覇を狙えると言われていたぐらい、選手のレベルは高かった。入学後は一般で100人ぐらいが入部するんです。自分らの『クラブ推薦』は大事にされたんですが、一般の選手は凄く走らされて、わざと人数を減らしていく。でも耐えているんですよ。見ていて可哀想になるぐらい。そういう時代です」