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「ぼくはほかの人の倍くらい走りました」涌井秀章は横浜高校で何を学んだのか? OBたちの証言で見えてきた超名門の極意
text by
日比野恭三Kyozo Hibino
photograph bySankei Shimbun
posted2022/08/08 06:00
横浜高校時代の涌井秀章。2004年夏にエースとして甲子園に登場し、3回戦・明徳義塾戦では完投勝利を記録
技術・戦術を叩き込むのが小倉なら、心を鍛えあげたのは、監督の渡辺元智だ。
高2の秋の神奈川県大会で、涌井は横浜隼人高校の打線に打ち込まれた。翌春センバツの出場が絶望的になった敗戦の後、渡辺に「ピッチャーはクビだ」と言い渡される。実際、しばらくは外野にまわっていた。
「さすがにエースに対して、ピッチャーをクビっていうのは……」
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苦笑とともに呼び起こされる期間はしかし、右腕に成長を促した。3年春の県大会準決勝で横浜隼人と再戦。7回コールド、涌井の完封によって勝利したのだ。
振り返れば、入部まもない頃の涌井に渡辺は「3年後の目標は何だ?」と問いかけていた。楽な道に流れがちだった15歳は、漠たる思いを半ば無理やり言葉にした。
「ドラフト1位になって、契約金1億円をもらうことです」
横浜高校の創立者、黒土四郎が好んだ「目標がその日その日を支配する」との言葉を、渡辺は座右の銘とした。高みを見据え、努力を重ねれば、おのずとそこへ行き着く。現実に西武からドラフト1巡目指名を受けた涌井は、その体現者となった。
目標を立てることの大切さ――それも高校での大きな学びだと涌井は言う。
3年春にキャプテンを“クビ”になった
7年後輩に当たる近藤健介は、キャプテンをクビになっている。3年春の甲子園で初戦敗退。宿舎に戻るなり渡辺から通告された。近藤は言う。
「横浜高校が1回戦で負けるのは、あってはいけないことなので」
涌井の例も重ねれば、屈辱的な負けを機とする称号の剥奪は、主力を逞しくさせるための渡辺の常套手段だったのだろう。この時の近藤たちも、夏の県大会5回戦で春全国優勝の東海大相模を撃破、さらに桐光学園との決勝では近藤のサヨナラタイムリーで延長戦を制し、春に続いて甲子園行きの切符をつかんでいる。
横浜高校での学びはと尋ねられ、近藤の第一回答はずばり「野球かな」。重ねて訊くと「少ないヒットで点を取る、頭を使った野球」と言葉は膨らんだ。