ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
《芸人「レイザーラモン」の由来にも》享年63歳スコット・ホールとは何者だったのか? 新日本で活躍後、米国プロレスブームの主役に
posted2022/03/22 11:01
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by
AFLO
伝説のユニット「nWo(New World Order)」のオリジナルメンバーとして90年代後半のアメリカプロレス界を席巻し、WWE時代には「レイザー・ラモン」のリングネームでも活躍したスコット・ホールが現地時間3月14日に死去した。63歳だった。
90年代のアメリカンプロレスを代表するトップレスラーであるホールだが、とくにブレイク前は日本のプロレス界とも非常に関わりが深かった。
ホールは1984年にフロリダで、ハルク・ホーガンを育てた名伯楽である日本人の元プロレスラー、ヒロ・マツダのトレーニングを受けてデビュー。ノースカロライナ、カンサスを転戦後、AWAでマサ斎藤と出会い、素質を見込まれ、マサのブッキングで1987年に新日本プロレスへ初来日。
その長身と均整の取れた筋肉質の肉体、そしてヒロ・マツダ門下生というバックボーンから「ハルク・ホーガンの再来」と期待され、レギュラー外国人の座を獲得。1990年にはのちにジ・アンダーテイカーとなるパニッシャー・ダイス・モーガンと組み、橋本真也&マサ斎藤の持つIWGPタッグ王座にも挑戦している。
坂口征二からの期待、船木誠勝との絆
当時の新日本現場監督だった坂口征二からの期待はとくに大きく、「87プロレスジャパンカップ争奪タッグリーグ戦」では坂口との大型コンビで出場。90年3月の坂口征二引退試合でもタッグパートナーを務めた(対戦相手は木村健悟と、のちの初代レザーフェイスことコーポラル・マイク・カーシュナー)。
また1988年にはヨーロッパのCWAに転戦時、新日本の若手レスラーとして同団体で海外修行中だった船木誠勝と意気投合。骨法の堀辺正史師範がオーストリアまで当時の教え子・船木に稽古をつけにいった際は、骨法に興味を持ち一緒に練習に参加。翌年、船木が日本に帰国しそのままUWFに移籍した後も、ホールは新日本に参戦した際、東京・東中野の骨法武術館を訪れ堀辺師範の指導を受けている。
80年代後半、アントニオ猪木、獣神サンダー・ライガー、ライオネス飛鳥、ザ・コブラなど、多くのプロレスラーが骨法を学んだが、外国人レスラーで指導を受けたのはスコット・ホールぐらいだろう。ホールが骨法を学んだ理由は、新しい技術を身につけることで、プロレスラーとして飛躍するための何かをつかみたかったからだという。