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《芸人「レイザーラモン」の由来にも》享年63歳スコット・ホールとは何者だったのか? 新日本で活躍後、米国プロレスブームの主役に 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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posted2022/03/22 11:01

《芸人「レイザーラモン」の由来にも》享年63歳スコット・ホールとは何者だったのか? 新日本で活躍後、米国プロレスブームの主役に<Number Web> photograph by AFLO

新日本プロレスで活躍し、“レイザー・ラモン”のリングネームで米国プロレスの主役としても活躍したスコット・ホール氏

 そんなプロレスに対する貪欲さや努力が実るのは1992年のこと。WCWからWWEに移籍し、キューバから密入国したマイアミビーチのドラッグ密売人というギミックの“バッドガイ”レイザー・ラモンに変身すると、WWEインターコンチネンタル王座を獲得するなどついに大ブレイク。とくに94年3月の「レッスルマニア 10」で行われた、ショーン・マイケルズとのインターコンチ王座を賭けたラダーマッチは、今も語り草となる伝説的な名勝負となっている。

RGは訃報のあとにTwitterを更新

 ちなみにHG&RGのお笑いコンビ「レイザーラモン」のコンビ名の由来は、もちろんプロレスファンであるふたりが“バッドガイ”レイザー・ラモンから拝借したもの。

 今回の訃報がニュースとして流れたあとRGはTwitterを更新。「あなたが好き過ぎて勝手にコンビ名にしました。ハチミツ二郎さんがスコット・ホールさんに会った時に『日本にあなたのリングネームを使ってるコメディアンがいます』と伝えてくれました。二人でちゃんとご挨拶に伺って公認されたかったです。Rest in peace.」と、哀悼の意を表している。

アメリカ最大のプロレスブーム「月曜テレビ戦争」の主役

 ホールは1996年5月、オーナーのビンス・マクマホンと衝突しWWEを離脱。「レイザー・ラモン」の名とも別れを告げ、盟友ケビン・ナッシュとともに、引き抜かれるかたちでライバル団体WCWに移籍。これがプロレス史に残るWWEとWCWによる「月曜テレビ戦争」本格開戦の号砲となった。

 当時、毎週月曜の夜、WWEは「マンデーナイト・ロウ」、WCWは「マンデー・ナイトロ」という極めて紛らわしい名前のプロレス番組を同日同時刻に放送。まるで80年代の日本における『8時だョ!全員集合』と『オレたちひょうきん族』による土曜8時のお笑い戦争さながらの熾烈な視聴率競争が行われていた。

 WWEのトップスターだったホールとナッシュの移籍で、その戦いは激化。そして絶対的なベビーフェースであるハルク・ホーガンがホール&ナッシュと合体しまさかのヒール転向をはたし、nWoを結成すると人気が大爆発。WCWの『ナイトロ』の視聴率が跳ね上がり、82週連続でWWEの『ロウ』を上回るほどの一大ムーブメントを巻き起こした。

 アメリカにおける最大のプロレスブームとは、この「月曜テレビ戦争」時代を指す。日本では80年代前半にプロレスブームが起こり、その主役のひとりだった長州力らがいまだに絶大な知名度を誇るように、「月曜テレビ戦争」の主役のひとりだったスコット・ホールのアメリカでの知名度も絶大。63歳での死は、あの頃を知る多くの人の悲しみを呼んだのである。

【次ページ】 大学時代のHGとRGは“ある方法”でドハマり

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