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甲子園の風BACK NUMBER
松山商「奇跡のバックホーム」から26年…ライト矢野&澤田監督がいま明かす“甲子園決勝までのドラマ”「最後まで、スタメンを誰にするか悩ませた張本人」
text by
元永知宏Tomohiro Motonaga
photograph byKYODO
posted2022/03/24 17:02
1996年夏の甲子園、のちのちまで「奇跡のバックホーム」と語り継がれるスーパープレーが生まれた。大返球で三塁走者を刺したのは矢野勝嗣(松山商)だ
「誰かにミスが出れば、徹底的に絞られる。自分のせいで仲間に迷惑をかけないように、連帯責任にならないようにといつも思っていました。僕はミスが多いから、仲間に『矢野がいたら練習が終わらんから野球部をやめてくれ』と言われたこともありました。あれはつらかったですね。
監督に怒られるのはまだいいんです。自分が期待されているということだから。もうダメだと思ったなら、メンバーから外されるはずですから。怒られない日が続くと、逆に不安になりました」
澤田監督の矢野評「『何とかしてやりたい』と」
当時の矢野について、澤田監督はこう言う。
「せっかくいいものを持っていながら、控えめな性格が邪魔をしている。度胸をつけさせるために、予告ホームランをしてダイヤモンドを1周する練習をさせたこともあります。でも、全然、さまにならない」
試合に出られないときの矢野の様子をよく見ていた。
「少しでもチームに貢献しようと、自発的に一塁コーチャーに立つんですよ。腐らずにやっている姿を見せるから、こちらも『何とかしてやりたい』という気持ちになる。最後の最後まで、スタメンを誰にするか、悩ませた張本人ですよ。ちょっとでも腐った態度が出ていたら、悩む必要なかったんです(笑)」
控えめで謙虚、目立たないところでも黙って努力するタイプの矢野にとって、他人を押しのけて自分をアピールすることはなかなかできなかった。
矢野が言う。
「澤田監督には毎日のようにその部分を指摘され、『もっと内面を出せ』と言われ続けました。でも、思い切りがなくて……考えれば考えるほど、できなくなりました。
澤田監督にもコーチにも相当に怒られました。ストライクを見逃したり、消極的なプレーをしたりしたときには特に。いま思えば、『殻を破ってほしい』という監督の親心だったと理解できますが、当時は毎日が苦しくて、苦しくて。でも、いま考えると、澤田監督はギリギリのところまで攻める厳しい指導をされていたんじゃないでしょうか」(つづく)