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甲子園の風BACK NUMBER
松山商「奇跡のバックホーム」から26年…ライト矢野&澤田監督がいま明かす“甲子園決勝までのドラマ”「最後まで、スタメンを誰にするか悩ませた張本人」
text by
元永知宏Tomohiro Motonaga
photograph byKYODO
posted2022/03/24 17:02
1996年夏の甲子園、のちのちまで「奇跡のバックホーム」と語り継がれるスーパープレーが生まれた。大返球で三塁走者を刺したのは矢野勝嗣(松山商)だ
「自分たちにとって厳しい、絶体絶命の場面を想定して、いつも練習してきました。ミスしたら終わりというプレッシャーの中で練習したことが、甲子園で生きたんでしょうね。あの場面でも、『普段の練習に比べたら、たいしたことない』と思えました」
松山商業野球部の厳しい練習が生んだプレーだったと矢野は言う。
かつての強豪=怖い監督、厳しい上下関係…
昔から松山商業は愛媛県内のみならず、県外からも腕自慢が集まる強豪だった。当然、硬式野球でならしたエリートがたくさんいる。中学時代は軟式野球部に所属した矢野は、松山商業という名門の中では目立たない存在だった。
「まわりのほとんどの人に『松商は厳しいから、やめたほうがいい』と止められました」
甲子園で実績のある強豪校には怖い監督が課す猛練習と、厳しい上下関係があるというのが、当時の高校野球の常識。澤田監督は松山商業から駒澤大学に進んで、母校のコーチを経て監督を任された厳しい指導者だった。
野球部には、長く受け継がれた「しきたり」があった。授業が終了した3分後にはユニフォームに着替えてグラウンドにいなければならない。校内は全力疾走。1年生は風呂敷以外のバッグを使用することが許されなかった。
矢野が新入生として壁にぶつかって悪戦苦闘しているとき、すでにレギュラー組で練習をしている同期がいた。のちに甲子園で強打を連発し「伊予のドカベン」の愛称で人気を集める今井康剛だ。
「硬式をやっていた同期の選手との差を感じました。『レベルが違うなあ』と。『ここでやっていけるんか……』と思いました」
“鬼”の澤田監督は「怠慢プレーに対して厳しかった」
選手たちの動きに目を光らせるコーチがいて、その後ろには「鬼の澤田」と恐れられる監督が立っていた。
矢野が言う。