ロックンロールとしてのベースボールBACK NUMBER
改装した東京ドームだけど… 音楽的には「後楽園時代からタイガース(沢田研二)の本拠地」だった?〈球場コンサートの元祖〉
text by
スージー鈴木Suzie Suzuki
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2022/03/03 17:00
マウンド視点で見た後楽園球場。後方の東京ドームを含めて、ライブ会場としても存在感を放った
しかし、肝心の内容は、正直「コンサート」というより「イベント」という感じで、ピエロ姿の尾藤イサオ、なべおさみが仕切る中、アメリカ空軍ブラスバンドは出てくるわ、木下大サーカスの象は出てくるわ、という賑やかしいもの。
ただ、そんな映像のバックに流れる、タイガースが当日演奏したザ・フーのカバー 『マイ・ジェネレーション』が、とにかく素晴らしい。深読みすれば、「俺たちは、こんな子供だましのイベントでワチャワチャするアイドルじゃないんだ、ロックンローラーなんだ!」という、沢田研二の心の声が、強く込められているような気がします。
とにもかくにも、その後、何百・何千の音楽家の手で継がれていく「日本球場コンサート史」の幕が、タイガースの手によって、切って落とされたのです。
タイガースと東京ドームの物語は終わらなかった
その後、タイガースの人間関係は急速に悪化。沢田研二との軋轢が続いたという加橋かつみは、一足早くバンドを脱退、またドラムスの瞳みのるは、71年に日本武道館で行われた解散コンサート(これも日本人初の武道館単独コンサート)が終了した直後に、メンバーに罵声を浴びせて 、故郷の京都へと帰り、芸能界を完全に引退、高校の先生になります(このあたりの経緯は、磯前順一『ザ・タイガース 世界はボクらを待っていた』集英社新書に詳しい)。
解散時の孤独感をバネとしたのか、それからの沢田研二がソロとして大活躍をしたのはご承知の通り。しかし、沢田研二とタイガース、沢田研二と後楽園球場~東京ドームとの関係が途絶えることはなかったのです。
時を経て、後楽園コンサートから40年後の08年12月3日、東京ドームで開催された「人間60年 ジュリー祭り」。還暦になった沢田研二が、薄暮の夕刻に始まり 計6時間20分、全80曲を歌うという空前絶後のコンサートを開催。
このとき沢田研二は、「♪できるならもう一度 僕の周りに集まってきて やさしく肩たたきあい 抱きしめてほしい」という歌詞の『いくつかの場面』を、感情いっぱいに歌い上げました。気持ちの中では、自分から離れていったタイガースのメンバーを思い出していたはずです。
そして、その5年後、2013年12月27日の東京ドームでは、沢田研二の願いがかなったタイガース再結成コンサートが実現。加橋かつみも瞳みのるも、わだかまりを捨てて集結。沢田研二、岸部一徳、森本太郎と一緒に、広い広い東京ドームで、まるで、68年の後楽園球場と同じように、サポートメンバーなしのたった5人で、ロックンロールを元気に演奏したのです。
という長い長い物語を知れば知るほど、私はこう思うのです――後楽園球場~東京ドームは、ジャイアンツではなく、タイガースの本拠地なんだ、と。
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