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「まるで刑務所」地獄のPL寮生活、立浪和義を奮い立たせた先輩・清原和博の言葉《8年ぶりキャンプ訪問&人命救助も》
text by
小西斗真Toma Konishi
photograph byKatsuro Okazawa/AFLO
posted2022/03/01 11:01
1985年、夏の甲子園決勝で優勝を決めた際の清原(3年)。この時、1年生立浪はスタンドにいた
今回の中日キャンプは、言うなれば清原さんにとっての「復帰戦」。きっかけは清原さんの願望だったようだ。その思いを汲んだ立浪監督が、球団に掛け合って訪問が実現した。もちろん、本来なら野球解説者がキャンプ地を訪れるのは当たり前のことだ。コロナ禍ではあっても多少の制約はあるにせよ、陰性証明と事前の申請があればどの球団も受け入れている。しかし、清原さんの場合は違う。それは「自分が行くことによって、先方に迷惑がかかるのではないか」という不安がぬぐえないからだ。
「まるで刑務所と一緒」PL、地獄の寮生活
清原さんと立浪監督の「絆」を知るには、PL学園野球部の壮絶な環境を知ることが一番の近道だ。同校在籍中に、清原さんは夏の甲子園を3度、立浪監督はスタンドから1度、そして自身が中心選手となって春夏連覇を成し遂げている。圧倒的な強さを生み出すすさまじい競争原理。立浪監督は著書の『負けん気』(文芸社)にこう綴っている。
《寮生活は、厳しいなんてもんじゃなかった。(中略)何が厳しいかというと、学校もグラウンドも寮も、全部同じ敷地内だから、24時間、一切そこから外に出られないことだ。まるで刑務所と一緒》
練習を終え、くつろげるはずの寮では付き人としての使命が待っていた。1年生は3年生の身の回りの世話をする。洗濯、配膳、夜間練習のサポート。同じ1年生はライバルを通り越して敵であり、洗濯機の争奪戦に後れを取れば、ただでさえ少ない睡眠時間はさらに削られる。
《ケンカばかりしていた。取っ組み合いになることも珍しくなかった。みんな、ギリギリの毎日で血走っていた》
18歳が王様のように振る舞えるのである。栄華を極めた野球部が、後に衰退する大きな要因となったのが暴力だが、その温床と指摘されたのがこの寮生活だった。
立浪が度肝を抜かれた“高校生・清原”
立浪監督は「地獄の寮生活」と振り返る一方で「そのような環境で鍛えてもらったお陰で、22年もできたのだと思っている」とも綴っている。耐え抜いたことが成功につながったのか、成功したからこそそう思えるのか……。いずれにしても現在の高校球児には想像もつかず、絶対に許されない気風ではある。そんな野球部に入って早々、立浪監督が「度肝を抜かれたことを覚えている」というのが清原さんの打撃である。