甲子園の風BACK NUMBER
警察が優勝球児に「お前たちが盗んだのか?」 夏の甲子園の優勝旗が消えた“中京商の事件”…発見前日にナゾの投書「占いでは明日見つかる」
text by
近藤正高Masataka Kondo
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2022/02/15 11:02
68年前、1954年の夏の甲子園で優勝した愛知・中京商業で、校長室にあった優勝旗が何者かに盗難されるという事件が起こった(※写真はイメージ)
犯人は結局見つからなかったが、学校側としては優勝旗さえ戻れば満足だった。優勝旗の紛失以来、野球部は練習どころではなく、秋の県大会では1回戦で敗退し、春のセンバツ出場も断たれていた。
《警察の話では、(引用者注:犯人は)比較的新しい時期に床下へ突っ込んだらしいとのことであった。私の予想通り、いたずら半分で盗み出したものの、反響が大きくなりすぎて隠し場所に困った犯行であるとの結論になった。当時、犯人さがしも行われたが、私は「出てきたのだからよい。罰することはしない」と、自らにいい聞かせていた》とは、当時の高野連副会長で、のちに会長となる佐伯達夫の述懐である(『朝日新聞』1978年7月18日付朝刊)。
佐伯によれば、優勝旗盗難について、高野連会長の中沢良夫も、夏の甲子園を主催する朝日新聞社の会長・村山長挙も取締役の上野精一も「やむをえない」とは絶対に言わず、「何とかして捜し出せないか」の一点張りだったという(肩書はいずれも当時)。
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朝日のほかの重役のなかには「出てこなかったら、もっと立派なものをこしらえたらいいのではないか」と言う人もいたが、村山と上野にはどうしても了解してもらえなかった。普段は温厚だった上野だが、詫びに来た中京商校長の梅村清明を怒鳴りつけたというから、優勝旗にかける執念にはただならぬものがあったらしい。
「カネはいくらかかってもいい」天皇旗と同じ生地でつくられた
盗まれた優勝旗は1915年の第1回全国中等学校優勝野球大会に際してつくられた。当時の朝日新聞社長・村山龍平がカネはいくらかかってもいいと命じて、京都の西陣織の名工が集まり、天皇の行幸などで掲げられる天皇旗と同じ「皇国織」という生地でつくられた豪華なものだった。
単に大金をかけてつくったというだけでなく、そこに込められた精神的な意味合いはいまでは想像がつかないほど重かったのだろう。優勝旗は盗難以前からぼろぼろだったが、それも球児たちがお守り代わりに旗の房を切り取っていたからだ。戦前には妊婦が持つと元気な子が産まれるなどとも言われていたという。前出の中京商のエース・中山も後年、自分も房を1本抜き取ったと告白している(「デイリースポーツ online」2015年11月10日配信)。
優勝旗が大会のたびにやせ細り、つぎはぎだらけになっていくので、盗難事件から4年後、1958年夏の第40回の記念大会を機についに新調することになった。このときも村山長挙は「棒(旗竿)1本になってもいいから」と言って頑なに反対した。これに対し佐伯達夫は、その考えに同感しながらも、《そこまでやったら高校野球の文化財はひとつも残らなくなる。新しい旗をつくって、古い方は今のうちに大切に保存しましょう》と説得して、ようやく了承してもらったという(『朝日新聞』1978年7月18日付朝刊)。
警察から「おまえたちが持って行ったんだろ?」
話を事件当時に戻すと、瀧正男は優勝旗の発見後、報告と陳謝のため高野連本部を訪ねた折、佐伯から、次の大会で返還するまで金庫にでも入れて保管するよう厳命された。これを受けて梅村校長は大金庫を注文し、それが届くまでは銀行に預けた。以来、優勝校は旗の保管に腐心することになる。