- #1
- #2
酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
実働3年でケガ続きの戦力外、今も右ひじは曲がったままだが… 元ロッテ守護神が「育成でもプロを経験してほしい」と語るワケ
posted2021/12/25 17:02
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph by
Kou Hiroo
1年目にセットアッパーとして実績を残した荻野忠寛は、2年目の2008年にはMLBに挑戦した小林雅英に代わってクローザーに抜擢された。
「セットアッパーは試合展開によってどこで投げるか変わってくる。それがきつかったですが、精神的には抑えの方が圧倒的にきつかったですね。
ただ、ボビー・バレンタインが監督だったのは僕にとってはすごくよかったですね。アメリカでは基本的に一度ブルペンで肩を作ったら必ず試合で投げるんです。日本の場合、試合状況次第では、肩を作っても出番がなくて、いったん休んでいたら状況が変わって、急遽また肩を作らされるみたいなことがよくありますが、ボビーの時はそれがなかった。
それに加えてただ“肩を作ってくれ”じゃなくて“何番バッターに合わせてくれ”とか、“ここで代打が出てもし左だったら行くからな”など明確に伝えられるんですよ。だから僕もここで出番だなというのがわかるわけです。あとから思うと、これは楽だったなと思いました。
1年目はストレートにカーブとカットボールぐらいしか投げていませんでしたが、2年目はスライダーとスプリットを投げるようになった。球種が増えてウィニングショットも結構増えたのが成績につながったと思います」
スタミナをつけようと取り組んだウェイトが
2年目、荻野は58試合に登板し5勝5敗30セーブ1ホールド、58.2回を投げて防御率2.45。セーブ数はオリックスの加藤大輔、西武のグラマンに次いでパ・リーグ3位だった。
しかし――この2年目の成績が、荻野忠寛にとってキャリアハイになってしまった。
「1年目も2年目も、シーズン終盤でちょっとバテてしまったので、3年目はスタミナをつけようとウェイトトレーニングをしたんですが、それで身体のバランスが崩れたんだと思います。
たまたま3年目の2009年の前半は登板機会が少なかったので、投げない分ウェイトもすごいやった。それでちょっと、ひじがおかしくなったんですね。
ウェイトをやりすぎて体のバランスが崩れた状態で投げてひじを痛めたのだと思います。ひじが痛くなったのでスピードが出なくなった。実は社会人の時代からひじが痛いときはあったのですが、それでもめちゃくちゃ投げていたから、大丈夫だろうという感じでした。
今思えば、靱帯がかなりヤバくなっていたわけで、結果が出なかったために6月末にはクローザーから中継ぎになりました。僕はプロで長くやってきたわけじゃないし、どこで投げるというこだわりは全然なかったので、そのこと自体は、それほどショックではなかった。ただ、中継ぎとしては普通の成績でしたが、毎日打たれているような感覚でした。
シーズン中に医者にも行きましたが、投げられているんだから大丈夫だろうという診断で、結局、ひじが痛いまま30試合くらい投げ続けているうちに、余計に患部の状態が悪化しました」