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フォークで“メッタ刺し”されても立ち上がる…全日本プロレス“不屈のベビーフェース”テリー・ファンクはなぜ愛されたのか?
posted2021/12/01 17:05
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by
AFLO
プロレス界の年末といえば、恒例となっているのが“タッグの祭典”。今年も全日本プロレスの『世界最強タッグ決定リーグ戦』と新日本プロレス『WORLD TAG LEAGUE』が開催され、暮れの風物詩となっている。とくに全日本の『最強タッグ』は、40年以上の歴史を誇っており、一度も途切れることなく続いている日本プロレス史上最長のシリーズだ。
このように今ではすっかり定着した暮れのタッグリーグだが、かつてプロレス界には「暮れの興行とタッグリーグは当たらない」というジンクスがあった。
その両方を覆したのが、『最強タッグ』の前身である1977年に行われた『世界オープンタッグ選手権』。全日本は75年12月に、国内外から豪華メンバーを集結させたシングルマッチのリーグ戦『オープン選手権』を成功させており、2年後、そのタッグ版として開催したものだった。
『オープンタッグ』出場チームは、全日本プロレス代表のジャイアント馬場&ジャンボ鶴田をはじめ、ラッシャー木村&グレート草津の国際プロレス代表コンビ、大木金太郎&キム・ドクの韓国師弟コンビ、ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクのザ・ファンクス、アブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シークの史上最凶悪コンビ、ビル・ロビンソン&ホースト・ホフマンの欧州最強コンビなど、まさに空前の豪華メンバーが揃ったが、それでもシリーズが開幕した時から、すでに“主役”は2チームに絞られていた。ザ・ファンクスとブッチャー&シークだ。
ザ・ファンクスと“最悪のヒール”のよる抗争
テリーと兄ドリーのザ・ファンクスは、72年の全日本旗揚げ当時から、外国人レスラーのブッキング(契約仲介)などで馬場に全面協力し、リング上でも日本側についたベビーフェース。兄弟ともに“世界最高峰”と言われたNWA世界ヘビー級王者になった実績もあり、この時点ですでに日本人エースである馬場と鶴田以上の人気を誇っていた。一方、ブッチャーとシークは、当代一の悪役レスラー同士の合体。最高のベビーフェースと、最悪のヒールによる抗争という、プロレスの古典的かつ普遍的な対立の構図が『オープンタッグ』の軸となったのだ。
ファンクスとブッチャー&シークは、開幕戦の後楽園ホールから公式リーグ戦そっちのけで大乱闘を展開。テリーはブッチャーとシークの凶器攻撃で血だるまにされ、ロープで首を絞められたまま場外へ宙吊りにされ、超満員の館内がファンの悲鳴に包まれた。これがじつは最後への伏線になっていた。