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《父子制覇》菊花賞の鉄則は「逃げたら勝てない」…セイウンスカイと“伝説の名騎手”の息子が成し遂げた「世代を超えた逃走劇」
posted2021/10/26 06:01
後続を大きく引き離して京都競馬場のコーナーを回るセイウンスカイ。直線に入った時点で勝負ありという完璧な逃げ切りだった
text by

石田敏徳Toshinori Ishida
photograph by
Sankei Shimbun
ナリタブライアンが3冠制覇を達成した1994年の菊花賞は、実にスリリングなレースだった。先手を奪ったスティールキャスト――'80年秋の天皇賞を7馬身差で逃げ切った牝馬プリテイキャストの仔――が滅多に見られないレベルの大逃げを打ったからだ。坂の下りに差し掛かっても2番手との差はざっと20馬身は開いていた。
(これはひょっとして……)
固唾をのんで見守ったものの、スティールキャストは直線に向くと急激に失速し、馬群に沈んだ。7馬身差の圧勝で3冠制覇を果たしたナリタブライアンの強さには目を見張るばかりだったが、レース後にはちょっと“ざんねん”に思ったことを覚えている。菊花賞の逃げ切りは'59年のハククラマを最後に途絶えていた。「逃げたら勝てない」という鉄則が覆される場面を私は見てみたかったのだ。
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その願望は4年後、セイウンスカイによってかなえられる。同馬を管理していたのは保田一隆調教師。39年前、ハククラマの手綱を取った保田隆芳騎手の息子だった。
日本に「モンキー乗り」を広めた名手・保田隆芳
保田一隆の父・隆芳は日本の競馬に巨大な足跡を残した伝説のホースマンだ。騎手時代には当時の「8大競走」を完全制覇、'70年に調教師へ転身してからもトウショウボーイを筆頭に多くの活躍馬を手掛けた。ダービー馬ハクチカラとともに米国へ遠征('58年)した際には現地で「モンキー乗り」を習得。「天神乗り」が主流だった日本の騎手界に、新たな騎乗フォームを広めたエピソードもよく知られている。

