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京大→新潮社→未経験からラグビー日本代表に…リオ五輪代表の中嶋亜弥が振り返る“異色キャリアの誕生秘話” 

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荘司結有

荘司結有Yu Shoji

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posted2021/10/21 11:03

京大→新潮社→未経験からラグビー日本代表に…リオ五輪代表の中嶋亜弥が振り返る“異色キャリアの誕生秘話”<Number Web> photograph by Yu Shoji

女子7人制ラグビーでリオ五輪代表に選出された中嶋亜弥さん。実は“異色すぎる経歴”を持つラグビー選手である

 そんな自身を気遣ってか、代表ウェアやリュックのお下がりをくれる代表候補チームのコーチ陣の優しさが身に沁みた。黙々とウエイトトレーニングに励み、当たり負けしない肉体改造に取り組んだ結果、13年1月の米国遠征でようやく代表デビューを果たした。初めて真新しい代表ウェアに袖を通した時、アスリートとしてのスタートラインに立った。

気づけば出社が「1カ月に7日」の時期も……

 趣味から高みを目指す糧へと自身の中でラグビーの位置づけが変わる中、葛藤が生まれたのは仕事との両立だ。新人の登竜門である書店への営業回りを卒業し、販売担当へと配置換えされた中嶋は、直木賞作家・辻村深月のサイン会運営や『ひだまりの彼女』で知られる越谷オサムの出版イベント、毎年恒例の「新潮文庫の100冊」のセレクトなど、花形事業に多く携わった。

 責任ある仕事を任されるのと比例するかのように、代表合宿や遠征への招集も増えていき、気づけば出社が1カ月に7日ほどの月すら出てきた。月単位で仕事が動く出版社社員と、代表選手の両立は限界に近づいていた。14年6月、「ラグビーに専念する」と仕事を休職した。

「仕事とラグビーの両方が中途半端になってしまうのが一番辛かったです。それでもオリンピックが終われば会社に戻るつもりだったし、サポートしてくれた同僚のことを考えると新潮社所属で出たいとの気持ちはありました」

 両立前提で組み立てた人生設計の中で、競技人生の一つの終着点はリオ五輪と決めていた。だが、その五輪でピッチに立った数分間が結果的に中嶋の運命を変えた。「五輪で世界を見て奥深さを知り、ラグビーがもっと上手くなりたいと純粋に思った」。オリンピック後の16年10月、新潮社を退職。その選択に後悔はないのだろうか。

「手に入れないと決めたものへの後悔は感じません」

「一回しかない人生で両方を取ることはできないですし、手に入れないと決めたものへの後悔は感じません。でも、新潮社での経験がラグビーに生きていると思う瞬間は本当にいっぱいあります。リオ五輪後に寄稿のお話を色々と頂いたのも、新潮社で働かなければ得られないものでした。新しいチャレンジを求めて転職する同世代の同僚を見て『一つの場所に留まることが必ずしも正解ではない』と思えたのも大きかったです」

 選手のみの立場に留まることを良しとせず、退職後は単身豪州へと渡り、チームマネジメントを学んだ。柔軟にキャリア形成できたのも会社での体験があってこそだろう。ラグビーとは一見、無縁に映る異色の経歴で培った思考や経験が、中嶋がラグビーと長く付き合い続けるバックボーンとなっているに違いない。(後編へ続く)

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