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「模試が良ければゲームソフト」で必死に勉強…“麻布→東大”の超エリートだったときど(36)を最強のプロゲーマーにした“父の言葉” 

text by

平田裕介

平田裕介Yusuke Hirata

PROFILE

photograph byShiro Miyake

posted2021/10/21 11:01

「模試が良ければゲームソフト」で必死に勉強…“麻布→東大”の超エリートだったときど(36)を最強のプロゲーマーにした“父の言葉”<Number Web> photograph by Shiro Miyake

東京大学卒にして、eスポーツのトッププロとして活躍するときど

「絶対に受験頑張るから」→海外大会でまさかの優勝

――麻布中学では、一緒にモアに通うゲーム仲間は。

ときど いましたけど、ずっと続いた人は多くなかったかな。僕は本当に没頭しちゃうタイプだから、自分より強い人がいる空間にいると、「絶対に勝ってやる」とのめり込んじゃって。高2で海外の大会に初めて行ったりして、夢中になって気づいたら高校が終わってたみたいな。

――海外への遠征費は、どうやって捻出されました?

ときど 親に頭を下げて。「これが終わったら、絶対に受験を頑張るから」って。その後も、ずっとやってましたけど(笑)。

 一緒に行ったプレイヤーのなかで僕が最年少だったんですけれど、「おまえ、学校いいところなんだから英語できるだろ」なんて言われて、向こうのプレイヤーたちに挨拶させられたりして。無茶振りすんなぁと思ったけど、いい経験だったと思いますよ。

――各国からもプレイヤーが集まっていたと思いますが、実力はどうでした?

ときど 技術力に関しては、日本のプレイヤーのほうが高かったなと思います。というのは、用いられるゲームって日本産なんですよ。しかも、日本には昔からゲームセンターという練習場があって、それこそ強い人たちが毎日のように対戦してたわけじゃないですか。

 海外はそういう感じではなく、誰かの家に集まってやることが多い。ゲームセンターもあるんですが、90年代に廃れていてプレイヤーが切磋琢磨する場にはなっていなかった。ただ、アメリカなんかは人口が多いので才能があったり、身体能力が高い人がいて。そういうプレイヤーは、違う要素で勝負してくるので面白いんですよ。そこも含めて学びが多かったし、優勝もできたし、自分の中では得るものが大きかった経験ですね。

 優勝には親も驚いていました。賞金も20万円以上はあったので旅費とかもカバーできましたし。親には返さなかったけど(笑)。大学に進んでからも海外大会に出ましたけど、その費用はちゃんとバイトをして稼いでました。

「東大一択」小さい頃から“すごさ”を叩きこまれていた

――「ときど」という名前をつけたのは、このあたりで?

ときど 中学に入った頃になります。今の自分の専門は「ストリートファイター」というゲームなんですが、当時は他のタイトルを遊んでいて、そのゲームの中で、飛んで、キックして、「どうした!」っていう掛け声と共に必殺技を決めるという戦い方しかやらなかったんですよ。そうしたら対戦する人たちもウンザリしちゃって、「それしかやらないから、これからはおまえの名前は『ときど』で決まりだ」って言われて。「と」んで、「き」ックして、「ど」うしたっていう頭文字を取って「ときど」なんですよ。

 昔のゲームの大会って、みんな自分でつけたリングネームで出ていたんです。それで自分の名前を考え出すのに困っていたので、もう「ときど」でいいやって。

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ときど
梅原大吾

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