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「模試が良ければゲームソフト」で必死に勉強…“麻布→東大”の超エリートだったときど(36)を最強のプロゲーマーにした“父の言葉” 

text by

平田裕介

平田裕介Yusuke Hirata

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photograph byShiro Miyake

posted2021/10/21 11:01

「模試が良ければゲームソフト」で必死に勉強…“麻布→東大”の超エリートだったときど(36)を最強のプロゲーマーにした“父の言葉”<Number Web> photograph by Shiro Miyake

東京大学卒にして、eスポーツのトッププロとして活躍するときど

――大学は東京大学に進まれたわけですが、理科一類の一択で狙ったのですか。

ときど 一択ですね。東大がいかにすごいところかということを、小さい頃から叩き込まれていたんでしょうね。とにかく東大ならどこでもいいだろうと思って、自分的に一番入りやすいと思った理科一類を選んだんです。理科一類は工学系、二類は理学系、三類は医学部と分かれるんですけど、一類は募集人数が多いから狙えるなって。

――何を学んでいたんですか。

ときど 2年までは準備期間というか。専門的なものはやらず、数学とか英語とか幅広く学ぶんです。そのなかで興味がある研究室を選んで、3、4年はそこで学ぶ。研究室に学部が配属される形なんですよ。

 で、僕はマテリアル工学科に。そこは材料工学で、物の基盤となる材料について研究してました。東大に入っても勉強しなかったから点数が低くて、そんな状態で入れて就職もしやすいといったらそこしかなかったと。積極的に進んだ感じではありませんでした。

大学院時代に訪れた転機

――プロゲーミングチームに入られたのは、大学院時代ですよね。

ときど アメリカのThe Traveling Circusというチームです。僕がいたマテリアル工学科は、9割方が大学院に進むんですよ。なんだかんだで研究も楽しかったし、就職もしたくないから、僕も大学院に進もうと思ったんですけど、点数が足りなくて希望した研究室に行けなくなっちゃって。それで違う研究室に入ったけど、そういう背景もあって研究にのめり込めなかったり、気持ち的にもどこか投げやりになっていて迷惑も掛けていたと思うんですよ。

 こんなことだったら就職しとくんだった、と思っていたら、よく対戦していた梅原(大吾)さんが日本人初のプロゲーマーになると聞いて。「そういう道があるのか!」とハッとすると同時に、ならば自分もその道に進んでいいんじゃないかと。そこへタイミング良く、The Traveling Circusから声を掛けてもらったんです。でも、相当悩みましたけどね。

――周囲に相談したり。

ときど ずっと人には言えなかった趣味だし、相談したところで返ってくる答えもわかってたんですよ。だけど、悩んで悩んでどうしようもなくなっていろんな人に相談すると、やはり「とりあえず、大学院の勉強をがんばれよ」って予想していた答えをされてしまう。それを聞いて、「やっぱり、そうだよな」って。

怖かった親父だけが…「大学院なんかやめてプロゲーマーになれ」

――お父さんはどうでしたか?

ときど 背中を押してくれたのが、親父だったんですよ。もう、わけわからんですよ。あんだけ「東大! 東大!」と言ってたのに、「お前はどうしようもない奴だから、普通の会社に行ったって、成功しないって。だったら、東大大学院なんかやめてプロゲーマーになれ」って。

 親父って、大学の先生だったんです。すごく怖い人。すごく真面目な人。とにかく堅いイメージで。なので、最後の最後まで相談しなかったんですね。話をした時はぶっ飛ばされるのを覚悟していたら、そう言ってくれて。僕が欲しいような答えを返してくれる人は1%もいないと思ってたけど、思いっきり目の前にいたじゃんって(笑)。

――東大を出ていると、どうしてもプロゲーマーの前に「東大卒」をつけられてしまうことが多いと思いますが、どこか引っ掛かる部分は。

ときど いやいや、逆にありがたいというか。やっぱり東大を出てなかったら、ここまで注目してもらうこともなかっただろうし。僕自身も「東大卒」を使わせてもらっているくらいですから。(後編に続く)

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