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「順位を決めるためではない」堀米雄斗を育てたスケートボード早川大輔コーチが語る“スケボーカルチャー”の本質とは?
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph byYoshiko Kojima
posted2021/09/30 11:04
スケートボード日本代表コーチとして東京五輪にも帯同した早川大輔氏
19歳で本場のロサンゼルスへ
「初めて行ったのは19歳のときです」
そのとき、実はスケートボードに区切りをつけようと考えていた。
「実家が理容店で長男なのでちっちゃいときから家業を継ぐ気でいました。継いだら指の怪我をするわけにはいかないし、ふんぎりをつけるために、最後に本場のロサンゼルスに1週間滑りに行きました」
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それが転機となった。
「アメリカで衝撃を受けてもう止まらなくなった。見るものすべてスケールが大きく感じて、本場の自由さも衝撃で、だからスケートボードはこんなに面白くなったんだとリアルに感じました。家業を継ぐのをやめてプロスケーターになりたいという夢にスイッチしました」
もうスケートボードを離れようとは思わなかった。スケートボードを職とし、その推移も肌身で感じつつ、今日まで歩んできた。そこでスケートボードへの確信が強まっていった。
堀米雄斗との出会い
「スケートボードで大切なのは『かっこよさ』ですね。見た目だけじゃなく、考え方なども。例えば前例がないなら前例を作ればいい、そのためにはどんな努力も厭わない、自己犠牲があってもかまわずやる腹のくくり方。板に乗って、怖かったり難しかったりするけれど乗り越えるためにアイデアを出して考えて考えて努力するプロセスを日々やっている。そういうマインドで生きていくのがかっこいいと思う。その表現がスケートボードで、誰にもできないことにチャレンジする姿勢、そして成功すればすごい、とみんなが称えるんです」
オリンピックで観る者が新鮮さを覚え、惹かれた光景の根源がそれであった。早川は揺るぎないスケートボードの価値観、カルチャーを受け継ぎ、下の世代へ伝えようと努めてきた。
そのとき出会った少年がいた。堀米雄斗である。
出会ったとき、「自分のやることが明確になった」と語る。そして早川は、「人生のどん底」と語る境遇に陥りながら、堀米のために、スケートボードのために、自分がやるべきことを実行していった。(後編に続く)
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