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81年前の“幻の東京五輪”、返上されたのは戦争だけが理由ではなかった「スタジアムもスケジュールもグダグダだった」
text by
近藤正高Masataka Kondo
photograph byKYODO
posted2021/06/16 11:02
1940年東京五輪ポスター。左は公募に当選した神武天皇像をモチーフとした作品。だが天皇像使用を内務省が禁じ、38年に右の作品に変わった
そして外苑競技場案もダメに
1937年2月には、オリンピック開催能力の有無が判断されるIOCワルシャワ総会が4ヵ月後に迫っていたことから、メインスタジアムの建設地に再び神宮外苑が浮上し、外苑競技場を改造して充てることが仮決定する。だが、これにも内務省神社局から横やりが入る。神宮側に、明治天皇ゆかりの明治神宮外苑は「きわめて由緒ある場所」で「一木一石たりともゆるがせにできぬ」と頑なな態度をとる者がいたためだ。
組織委員会は内務省と再三折衝した結果、大会後の競技場の管理は神社局に委ねるなどいくつもの条件をつけられた上で、競技場の最小限の改造は認められた。しかし、そこで示された収容能力は5万数千人と、東京市が要望していた10万人以上を収容可能な競技場とは程遠いものであった。これでは市側はとうてい受け入れられない。こうして五輪開催が刻一刻と迫るなか、外苑競技場案も袋小路に入り込んでしまったのである。
「8~9月」か「9~10月」か…会期も決まっていなかった
1940年の東京五輪は、競技場の建設地ばかりでなく、会期もなかなか確定しなかった。
1937年6月のIOCワルシャワ総会では「8月24日~9月8日」と決まったが、あとになって、クリンゲベルグというIOCより大会の組織委員会に派遣されていた技術顧問が、会長のラトゥール宛てに、東京の8月末は雨が多く適切ではないので会期を変更したいと伝える。クリンゲベルグは再検討した上、翌年3月のIOCカイロ総会で会期を9月下旬~10月上旬に変更するよう提議し、協議された結果、最終的に「9月21日~10月6日」と決まった。気候を理由に大会の内容に変更が生じたという意味では、2020年大会でマラソンの開催地が札幌に変更されたのを思い起こさせる。
会期を決めるにあたり、気候以上に問題となったのが、東京での万国博覧会との兼ね合いだった。IOCは、オリンピックが万博の余興と見られるのを危惧し、会期が重複しないよう日本側に再三にわたり釘を刺していた。しかし、ワルシャワ総会で東京五輪の8月24日開幕が決まった時点では、じつは万博の会期終了は8月31日となっており、会期が8日間も重なっていた。このことはカイロ総会でも問題となったが、このとき出席していたIOC委員の嘉納治五郎は、万博は8月24日に終了すると述べた。あとで嘉納が嘘をついたのに気づいたラトゥールは、日本側への不信感を募らせることになる。ただ、結果的にオリンピックが9月開幕となったため、万博との重複問題自体は解決されたのは幸いであった。
「フェンシング」と「近代五種」問題
プログラムについても問題が生じた。競技種目には当時の日本では馴染みの薄いものも多かった。