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81年前の“幻の東京五輪”、返上されたのは戦争だけが理由ではなかった「スタジアムもスケジュールもグダグダだった」 

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近藤正高

近藤正高Masataka Kondo

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posted2021/06/16 11:02

81年前の“幻の東京五輪”、返上されたのは戦争だけが理由ではなかった「スタジアムもスケジュールもグダグダだった」<Number Web> photograph by KYODO

1940年東京五輪ポスター。左は公募に当選した神武天皇像をモチーフとした作品。だが天皇像使用を内務省が禁じ、38年に右の作品に変わった

 とくに競技場の問題はこのあともずっとネックとなり、結果的に大会返上の要因となった。思えば、波乱続きの今回の東京五輪も、メインスタジアムとなる新国立競技場の計画が二転三転したことが最初のつまずきだった。ここでも2つの東京五輪は共通点を見出せる。

 1940年大会の招致段階で東京市がメインスタジアムをはじめとする主要競技施設の建設地として考えていたのは、東京湾岸の7号埋立地(現在の江東区辰巳)だった。ここは東京市が以前より開発を進めていた土地で、同じく1940年に東京で開催が決まっていた万国博覧会の会場とあわせてオリンピック競技場を誘致し、開発の起爆剤としようというもくろみであった。しかし、湾岸に位置するため風が強くて競技に適さないなどの理由から、体協を中心に猛反対にあい、同案は招致委員会ではほとんど議論されなかった。

 ちなみに東京湾岸は、東京が2016年のオリンピックを招致したときにもメインスタジアムの建設予定地に選ばれている。このときは晴海にスタジアムを新設する計画だったが、やはり風が強いなどの理由から招致失敗後に白紙に戻され、2020年大会では同じ場所に選手村が建設されることになった。

「7つの候補地」…代々木練兵場も千駄ヶ谷もNG

 話を戦前の東京五輪に戻すと、1936年3月に招致委員会がまとめた「招致計画大綱」では、メインスタジアムの設置場所に明治神宮外苑が選ばれ、既存の外苑競技場の敷地を拡張して新たな競技場を建設する案が示された。ただし、この大綱は同月のラトゥール来日に間に合うよう急遽作成されたもので、詳細な技術上の研究と検討を経たものではなかったという。また、場合によっては建設地の変更もありうるとの条件も付されていた。

 結局、招致決定後に大会組織委員会が発足すると、メインスタジアムの場所と規模は一から検討し直されることになる。組織委員会内に設けられた競技場調査委員会が選定した候補地は、第1候補から順に代々木練兵場・千駄ヶ谷・青山射撃場跡・駒沢ゴルフ場・品川駅東側の埋立地・上高井戸・砧の7ヵ所だった。しかし、代々木練兵場の転用は陸軍の同意が得られず、千駄ヶ谷は土地買収が困難と判断された。ほかの候補地も土地の狭さや交通の便などから決定打に欠け、一向に話がまとまらない。招致決定から半年経っても競技場が決まらないという状況に、国内外の関係者やメディアからは、東京五輪が無事に開催できるのか危ぶむ声も上がるようになる。

【次ページ】 そして外苑競技場案もダメに

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