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81年前の“幻の東京五輪”、返上されたのは戦争だけが理由ではなかった「スタジアムもスケジュールもグダグダだった」
text by
近藤正高Masataka Kondo
photograph byKYODO
posted2021/06/16 11:02
1940年東京五輪ポスター。左は公募に当選した神武天皇像をモチーフとした作品。だが天皇像使用を内務省が禁じ、38年に右の作品に変わった
とくに日本側が実施に難色を示したのがフェンシングと近代五種競技だった。組織委員会ではいったん、この2競技はIOCの了解を条件にプログラムから外すことが決まる。しかし、これらはIOCがオリンピックで必ず実施するものと定めた公式競技だった。そのため、IOCだけでなく、国際フェンシング連盟からも激しい反発を受け、日本側は決定を撤回せざるをえなかった。
競技場の場所や会期など開催の前提となる事項が、オリンピックの招致決定後も長らく確定せず、準備が後手に回ったのは、東京市・体協・組織委員会など主催する側の足並みがなかなかそろわなかったことにも大きな原因がある。組織委員会には政府や軍部からも委員が選ばれ、挙国一致で大会の準備にあたることにはなったが、もともと国側は東京五輪の開催に消極的だった。この傾向は1937年7月に日中戦争が起こるとますます顕著となり、最終的に大会返上へとつながっていくのである。
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