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親日家ストイコビッチは巧くてお茶目でカッコよかった… “アーセナル移籍よりグランパス”秘話と“EUROで見せた意地”とは
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NumberWeb編集部Sports Graphic Number Web
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posted2021/06/11 11:01
名古屋時代のストイコビッチ。EUROでも大活躍した
<名言4>
スポーツと政治は切り離して考えるべきです。スポーツマンだからこそできる国際交流もある。
(ドラガン・ストイコビッチ/Number394号 1996年6月6日発売)
◇解説◇
ピクシーのサッカー人生を語る上で避けて通れないのは、代表チームと政治の関係だろう。イビチャ・オシム監督率いるユーゴスラビア代表は1990年イタリアW杯でベスト8に進出するなど、若き力が台頭していた。しかしユーゴ紛争による制裁のため、92年欧州選手権に出場できなかったのだ。
本来スポーツと政治を切り離して考えていたピクシー。だが、1999年のNATOによる母国空爆の際には。抗議するアンダーシャツを着用。ユーゴスラビア代表(当時)ではEURO予選でクロアチアとの激闘の末、本戦へと駒を進めた。
翌年のEUROでは世代交代の中で控えに回されたピクシーだが、グループステージ初戦のスロベニア戦で意地を見せる。3点ビハインドの状況から途中出場するとチームを鼓舞し、勝ち点1をもたらすと、続くノルウェー戦でもフリーキックから先制点を呼び込むなど、チームの決勝トーナメント進出に貢献したのだ。
またユーゴスラビアからセルビア・モンテネグロへと国名が変更された当時、ストイコビッチはサッカー協会の会長を務めていた。
民族対立など、政治的な緊張感が漂っていたが、ストイコビッチは「選手たちの間でも国名変更は話題になっていたけれど、まあ、すでに昔のユーゴはないわけだし、さしてノスタルジーがあるわけでもない。セルビア人選手もモンテネグロ人選手も、この変化ですぐに何かを迫られるわけではないし、自分たちの仕事に集中するだけだ」と冷静に語ったこともある。
そんなピクシーがセルビア代表監督として久々に日本に戻って11日、森保一監督率いる日本代表と対戦する。彼のメンタリティならば、EURO出場を逃したセルビア代表の強化のため、“ただの親善試合”に終わらせることはないだろう。