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“4万円”チケットがダフ屋で“60万円”に…戦前の異常人気ボクサー、“拳聖”ピストン堀口とは何者だったのか? 

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細田昌志

細田昌志Masashi Hosoda

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posted2021/04/25 11:00

“4万円”チケットがダフ屋で“60万円”に…戦前の異常人気ボクサー、“拳聖”ピストン堀口とは何者だったのか?<Number Web> photograph by KYODO

戦前~戦後の大スター拳闘家・ピストン堀口(堀口恒男)

 ただし、永田町の国会図書館で当時の新聞を渉猟すると、その2カ月前にすでに《堀口ピストン戦術》(1933年4月28日付/読売新聞)という記述が確認できる。そしてそれ以降、《堀口もピストンのような左右を揮ふというわけにはゆくまい》(1933年5月9日付/読売新聞)《強打王に当る無敵「ピストン」》(1933年5月20日付/読売新聞)《堀口のピストンのやうな連打》(1933年5月24日付/読売新聞)などのピストン表記が続く。

 では、「ピストン堀口」とリングネーム的な表記が初めて現れたのはいつか。それは前記の「対ユーグ戦」の予想記事の中の《「ピストン」堀口にユーグ苦戦》(1933年5月29日付/読売新聞)というリードが初登場となる。それ以降、《いよいよプラドネル対ピストン堀口》(1933年7月4日付/読売新聞)《フェザー級の第一人者 ピストン堀口》(1933年7月30日付/読売新聞)《ピストン堀口の相変わらぬ精力》(1933年9月15日付/読売新聞)と、次第に紙面で定着している様子が窺える。ここから「ピストン堀口」は既成事実化したものと見ていい。

“4万円”チケットがダフ屋で“60万円”に

 堀口恒男が「ピストン堀口」に改名したということではまったくない。「ピストンロッド」を語源とするニックネームが、持ち前の独特な戦法と合致し一体化したことで、実際のリングネームをも凌駕した稀有な例を生んだということだ。数々の記事は何よりの証左と言える。

 古い試合映像からもそれは判然となる。ほとんどノーガードで少々のジャブもカウンターも厭わず、ひたすら前進してパンチを次々と繰り出す好戦的なファイトスタイルは、確かに「ガタンガタン」と稼働する油圧機器(ピストンロッド)を彷彿とさせる。試合は当然白熱した。日比谷公会堂のような常打ち会場はもちろん、旧国技館や後楽園球場の大会場をも大いに沸かせた。

 かくして、人気の沸騰したピストン堀口は話題の中心人物となる。新聞に大きく報じられ、雑誌の表紙も飾った。映画館で試合が上映されると、会場に足を運んだことのない女性や子供で満員となった。映画館だけではない。学校の体育館や市町村の公会堂でも試合は繰り返し流された。フィルムが高値で取引されてもいる。

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