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“4万円”チケットがダフ屋で“60万円”に…戦前の異常人気ボクサー、“拳聖”ピストン堀口とは何者だったのか?
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph byKYODO
posted2021/04/25 11:00
戦前~戦後の大スター拳闘家・ピストン堀口(堀口恒男)
「日仏対抗戦」の天王山は1933年6月24日に阪神甲子園球場で行われた「野口進対エイム・ラファエル」で、これこそが日本のスタジアムにおける格闘技興行の嚆矢となる。
その9日後、18歳の堀口恒男は早稲田大学戸塚球場に3万人の大観衆を集め、元世界フライ級王者のエミール・プラドネルと対戦、なんと引き分けに持ち込んでいる。デビュー間もない新人が、元世界王者と引き分けたのだ。大殊勲である。これによって堀口の名は一気に世間に鳴り響いた。
いつから「ピストン堀口」になったのか
ここで気になることを述べておく。
当時の新聞記事を読むと、リングネームは「ピストン堀口」ではなく、終始本名の「堀口恒男」である。それはデビュー間もないこの時期に限ったことではなく、現役を引退するまでずっとそうである。大流血戦の末に勝利を手にした小池実勝との初代日本フェザー級王座決定戦(1934年12月26日)にしろ、「世紀の一戦」「天下分け目の一戦」と謳われた笹崎僙との因縁の対決(1941年5月28日)にしろ、常に「堀口恒男」とクレジットされている。
意外と知られていないことだが「ピストン堀口」というのはリングネームではなくニックネーム(愛称)となる。名付け親は読売新聞記者の下田辰雄である。
『ピストン堀口の風景』(ベースボール・マガジン社)の著者のノンフィクション作家の山本茂は、1933年6月5日に行われた「日仏対抗戦」における「対ユーグ戦」の戦評《脅威的存在! 堀口「魔力」のピストン 見事ユーグを圧倒》(1933年6月6日付/読売新聞)で初めて「ピストン」の文字が登場したと書く。