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骨が折れても皮膚が裂けても橋本聖子は滑り続けた 冬季4回、夏季3回出場“五輪の申し子”はいかに誕生したか
text by
矢内由美子Yumiko Yanai
photograph byJMPA
posted2021/02/25 11:01
冬季五輪リレハンメル大会での橋本聖子。彼女の人生はオリンピックと共にあった
「いてもわからないくらい存在感の薄い子でした」
入部したときは女子選手は橋本さん1人。4、5人の男子選手と一緒にトレーニングを行なう日々が始まった。ところが、入社時に測った肺活量は一般人より少ない2000cc程度しかなかった。入社後も呼吸器の病気で数週間入院することになった。けれどもその後は治療や食事、そして富士吉田の環境が体に合い、病気を克服していった。
入部当時の橋本さんの様子を、長田監督はかつてこのように語っていた。
「入ってきたころの橋本聖子会長は、無口で木訥とした印象でした。必要のあること以外はしゃべらず、聞いたことにだけ的確な返事をする。そこにいてもわからないくらい存在感の薄い子でした」
骨折しても血を流しても滑り続けた
スケートに関しては持って生まれたパワーだけで滑っているような状態だったが、それでも速かった。それに、練習に取り組む姿勢が並外れていた。橋本さんは男子選手に交じっても決して弱音を吐くことなく、日々のトレーニングをこなしていった。氷上練習で転倒して腰椎を亀裂骨折しても少し休んですぐに海外遠征に出かけたり、スケートの刃で裂傷を負って血を流しながら練習をしていたり。精神力が図抜けており、その様子は厳しいことで知られる長田監督を感嘆させるほどだった。
入りたての頃は口数が少なくおとなしかったという橋本さんは、欲もあまりなかった。長田監督との面談では、「オリンピックは一度出られれば十分です。一度出ればそこで辞めていいと思っています」と言っていた。
しかし、入社1年目の84年2月、サラエボ五輪に出場して世界トップの実力を肌で感じ、スイッチが入った。当時、ワールドカップはまだ行なわれておらず、国際大会といえばオリンピックと世界選手権くらい。初めて世界トップの本気の滑りを目の当たりにしたことで、火がついたのだ。
「オリンピックは参加するだけではだめだ。勝たないといけない」
そう決意した橋本さんは、帰国してからすぐに長田監督とともにスケーティング技術を磨くためのトレーニングに着手した。サラエボ五輪までは体重移動のない力任せの滑りだったが、徐々にカーブも直線もうまくなっていった。