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骨が折れても皮膚が裂けても橋本聖子は滑り続けた 冬季4回、夏季3回出場“五輪の申し子”はいかに誕生したか

posted2021/02/25 11:01

 
骨が折れても皮膚が裂けても橋本聖子は滑り続けた 冬季4回、夏季3回出場“五輪の申し子”はいかに誕生したか<Number Web> photograph by JMPA

冬季五輪リレハンメル大会での橋本聖子。彼女の人生はオリンピックと共にあった

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矢内由美子

矢内由美子Yumiko Yanai

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 森喜朗氏の後任として東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の会長に就任した前五輪相の橋本聖子さん。1964年(昭和39年)の東京五輪開会式の5日前に生まれ、開会式を国立競技場で見た父・善吉さんが聖火に感動し、「競技を問わずオリンピック選手になってほしい」という願いを込めて『聖子』と名付けた逸話は有名だ。

 現役時代は山梨県を拠点とする富士急行スケート部に所属し、92年アルベールビル五輪女子1500mで日本人女性初となる冬季五輪銅メダルを獲得。自転車で夏季五輪にも出場した彼女は95年に参議院に初当選し、96年アトランタ夏季五輪を最後に引退した。

 スピードスケートで冬季4回、自転車で夏季3回、合計7回の五輪出場を果たした“五輪の申し子”は現役時代、どのような選手だったのか。

大病を患いながら抜群の成績を残した

 富士急行スケート部は高度経済成長期の68年4月に創部された。富士急行株式会社が富士山麓の溶岩地帯を切り開いて61年につくった「富士五湖国際スケートセンター」が、ホームリンク。現在の富士急ハイランドの絶叫アトラクションの真下に当たる場所にあった。

 橋本さんが入部したのは北海道駒大苫小牧高校を卒業した83年4月だ。監督は当時34歳だった長田照正さん。監督に就任して3年目のことだった。

 橋本さんは中学3年生で全日本スピードスケート選手権を制し、駒大苫小牧高校時代は1年生から世界大会にするなど、将来を嘱望されていた。しかし、小学生の時に腎臓の大病を患っており、高校3年生の時に再発。同時に呼吸器の病気も患った。

 それでも試合に出れば成績は抜群だった。スプリント力に秀でており、国内では短距離から長距離までどの距離も強く、高校卒業時には実業団と大学の争奪戦になった。

 その中で富士急行を選んだのは、高校1年生の時に合宿をした経験があったからだ。同部の拠点は富士山麓にあり、標高が高い。夏場の陸トレ期に登坂ダッシュをできる坂道がふんだんにあり、空気も澄んでいる。400mダブルトラックの本格的なリンクも敷地内にある。

「標高が高いので心肺機能を高めるのにも良い。すばらしい環境だと思った」(橋本さん)

【次ページ】 「いてもわからないくらい存在感の薄い子でした」

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