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骨が折れても皮膚が裂けても橋本聖子は滑り続けた 冬季4回、夏季3回出場“五輪の申し子”はいかに誕生したか 

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矢内由美子

矢内由美子Yumiko Yanai

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posted2021/02/25 11:01

骨が折れても皮膚が裂けても橋本聖子は滑り続けた 冬季4回、夏季3回出場“五輪の申し子”はいかに誕生したか<Number Web> photograph by JMPA

冬季五輪リレハンメル大会での橋本聖子。彼女の人生はオリンピックと共にあった

冬季女子初のメダル獲得も、惜しむ気持ちが

 4年後の88年カルガリー五輪では、500mから5000mまで、当時あった全5種目に出場。そして、全種目で日本新記録を更新して入賞を果たした。

 ハイライトは27歳で出た92年アルベールビル五輪。橋本さんが1500mで獲得した銅メダルは、冬季五輪の日本女子メダル第1号となった。ただ、最も得意だった1000mは、4度の五輪ですべて不利なアウトスタートを引き当ててしまい、メダルに届かなかった。長田監督は「あと少しのツキがあれば、頂点に輝くチャンスはもっと大きかった」と、今も惜しむ気持ちが残っているという。

 練習のすさまじさが途轍もなかったと言われる橋本さんは、若いころ、海外トップ選手から大いに可愛がられていた。とりわけ、80年レークプラシッド五輪で5種目金メダルに輝いたエリック・ハイデンさん(米国)には、よく声を掛けてもらったという。長田監督によると、ハイデンさんは身長156センチの橋本さんを指し、「セイコ・ハシモトが全種目とも上位で滑っているのを見たか。小さな日本人選手があれだけできるなら、アメリカの女子選手ももっとできるはずだ」と自国の選手を叱咤していたそうだ。

批判の声も結果を以て回答としてきた会長

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 現役時代は全種目に挑戦することに「種目を絞らないと成功しない」と言われたり、自転車で夏季五輪に出ようとすると批判を浴びたりした。しかし、目の前にある困難に対し、決して大きな声で反論することをせず、どんな声にも結果を以て回答としていた。そして、競技に対してストイックに打ち込む背中は後輩たちへのレガシーとなり、98年長野五輪銅メダリストの岡崎朋美さんへと受け継がれた。

 政治家になってからも数々の困難に対応してきた橋本さんだが、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長には今までにない難局が立ちはだかる。どのようにして安全な大会を開催していくか。国際的に批判を浴びた男女平等問題をどう解決していくか。手腕が注目される。

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