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なぜ「ミスしても味方に謝らない」のか…「神」と海外選手の真の関係性とは【サラーの祈り】 

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中野遼太郎

中野遼太郎Ryotaro Nakano

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posted2021/02/13 17:00

なぜ「ミスしても味方に謝らない」のか…「神」と海外選手の真の関係性とは【サラーの祈り】<Number Web> photograph by Getty Images

ゴールを決めたあと、ピッチに額をつけるサラー

 たとえば、決定的なシュートを外したとき、パスミスをしたとき。

 僕たち日本人の多くは「味方に謝る」ことを選択します。そうした日本人選手の姿は、すぐに思い浮かぶのではないでしょうか(反対に外国籍選手が即座に謝っている姿は想像がつきにくいのではないでしょうか)。ほぼ無意識に、周囲に対して、自分の失敗であることを表明します(小学生から社会人まで、試合中に「ごめん」とか「わりぃ」がこれほど頻回に往来するのは、日本サッカーの特徴的な光景のように思います)。

 ここで考えたいのは、この時に僕たちを裁いているのが「場」である、という点です。周囲に対して謝る、の周囲とは監督でありチームメイトですが、実は日本人的な「場」を形成するのは個人ではなく「空気」です。僕たちのミスを裁くのは、名前を持つ個人ではなく、その総体である「場の空気」であることが多い。

 対比して、一人の神を信仰する「一神教徒(キリスト教、イスラム教、ユダヤ教)」の人たちを観察していると、彼らは決定的なミスの直後でも、すぐに味方に謝ったり、自分の失敗であることをすすんで表明したりはしません。

 では、どうするのか。彼らはまず、神様と対話します。キリスト教徒であれば、十字を切る。自分の第一感情が向かうのは、周囲や、場ではありません。もちろん空気でもありません。そこにはまず、自分と神様がいて、他者が入る余地はありません(僕自身が信仰を持つわけではないので正確な心象描写はできませんが)。

 聖書でいう「最後の審判」に代表されるように、彼らには「自分を裁くことができるのは神様だけ」という前提があります。空気はもちろん、チームメイトにも、監督にも、メディアにも、本質的に自分を裁く権利はないのです。起きたこと(この場合は決定的なミス)は「神様と自分」のあいだで定義されていくものであって、周りにジャッジされるものではない。赤の他人となれば尚更で、批判に対して異様に堂々として見えるその態度は、「お前に言われる筋合いは『本当に』ない(本質的には自分を裁くことができるのは神しかいない)」という思考と関係があるように思えます。

外しても、外しても「俺に寄越せ」

 僕があるクラブで一緒にプレーしたブラジル人は、どんなビッグチャンスでシュートを外しても、それが僕のアシスト未遂だったとしても、決して、断じて、頑なに、こちらに謝らず、まずは空を見上げて神様と対話をし、十字を切り、それが終わると思い出したようにこちらを向いて、ゴールを決めたのかと勘違いするほどのドヤ顔でグーサイン(+拍手)を送ってくるのでした。「いや、決めろよ」と毎回思うのですが、僕が気づいたのは、「だから毎回同じテンションでパスを要求できるのではないか?」ということでした。

 おそらく、彼は場に裁かれていません。つまり自己評価や自己記述が、ほとんど「自分と神様の間」で行われるので、自信のボリュームは周囲から影響を受けず、ミスによって大きく変動しません。「俺に寄越せ」「俺が試合を決めてやる」という決意は、調整せずとも常駐していて、その思考態度は(一見すると傲慢に映ることもありますが)「揺らぎのなさ」に繋がります。外しても、外しても「俺に寄越せ」の温度が変動しないのです。

 もちろん、その後に本当に結果を出すかは個人の実力ですが、結果を導くまでの内省の過程として、この「揺らがない」ことと「信仰がある」ことには相関があるように思えてなりません。

 信仰する神様を持たない僕にとっては、彼らにとっての「神様」がいるべき場所を埋めるのは、周囲の評価(と少しの自己記述)であり、それは時と場合によって大きく変動していきます。ついさっきのナイスパスや、直近のミスが、周囲の評価を(空気に乗せて)跳ね返ってきて、次の僕の精神状態を作り上げます。周囲から影響を与えられること、奪えるものの範囲が、信仰の不在分(適切な表現ではないかもしれないけれど)大きく残されているのです。

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オルンガ
モハメド・サラー

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