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「1勝すらできず、31年ぶり2部落ち」“笑わない男”稲垣啓太が号泣した日…“人生初の挫折”を大学恩師が振り返る
text by
近藤篤Atsushi Kondo
photograph byAtsushi Kondo
posted2021/02/05 17:03
関東学院大学4年時に主将を務めたものの入れ替え戦に敗れ、31年ぶりに2部落ち。陥落決定直後の稲垣の写真を、当時の指導者・春口廣が見る。
春口は静岡県出身、愛知高校時代にラグビーを始め、日本体育大学を経て教師の仕事をこなしつつラグビーの指導者となると、1974年に当時は関東の3部リーグに所属していた関東学院大学ラグビー部監督に就任。部員わずか8人だったその弱小ラグビー部を16年という歳月をかけて関東大学ラグビーリーグ初優勝(その後、さらに9度の優勝)、全国大学ラグビー選手権初優勝(その後さらに5度の優勝)に導いた男である。
「フォワードの第一列は、動けないデブがやる風潮があった」
「当時はね、フォワードの第一列というのは、動けないデブがやる、みたいな風潮がまだあったんですよ」
1月の初め、冷たい北風の吹くある朝、京急線金沢文庫駅からほど近いところにある「横濱ラグビーアカデミー」の事務所で、子供たちのラグビースクールを終えたばかりの元関東学院大学ラグビー部監督はそう言った。
「だから、稲垣啓太のような選手をナンバーエイトやフランカーの位置に据えて、チームの中心選手として最大限働かせたいと思う監督や指導者は多かったと思います」
しかし春口の考えは違った。
世界を相手に戦いたいのなら、あくまでも稲垣はプロップ。フロントローの選手として育て上げるべきだという持論があった。これほどの肉体と身体能力を持った男がプロップをやって初めて世界に挑めるんだ、と。
稲垣はチームメイトを抱きしめて泣いた
関東学院大学で、稲垣は人生で最初(そしてたぶん最後)の挫折を味わうことになる。
大学4年の時にキャプテンに任命されるが、その年の12月、リーグ戦で1勝もできないまま2部に落ちてしまう。試合内容も、大差をつけられる酷いものが多かった。
稲垣はエリート街道を順調に歩んできた選手ではない。しかしそれは、落ちたらやばい、という高みを経験したことがなかった、とも言える。
稲垣は生まれて初めて、落ちると痛いところから落ちた。
熊谷ラグビー場での立正大学との入れ替え戦、稲垣の率いる関東学院大学はあっけなく敗れ、稲垣は試合後にチームメイトを抱きしめて泣いた。
稲垣にはキャプテンとしての資質が足りなかったのか?
稲垣啓太にはキャプテンとしての資質(仮にそういうものがあれば、という話だが)が足りなかったのですかね?
そんなこちらの問いに対して春口は、「いやいや、どう考えてもキャプテンは稲垣しかいなかったですよ」と即答した。