スポーツ・インサイドアウトBACK NUMBER
ラソーダと稀有なパーソナリティ。名将が語っていた“監督論”「鳩を手で包んでやるような仕事だ」
posted2021/01/16 06:00
text by
芝山幹郎Mikio Shibayama
photograph by
西山和明
年明け早々の2021年1月7日、トミー・ラソーダが93歳で逝った。1927年生まれだから、クリント・イーストウッドよりも3歳年長、土方巽よりも1歳年上になる。
私服姿のラソーダは、一度だけ見かけたことがある。ドジャー・スタジアム内のエレベーターにたまたま乗り合わせたのだが、連れの人とお話し中だったので、声をかけるのはさすがに遠慮した。ただ、この世代の人たちはなぜか懐かしい。1960年代の末、土方巽、澁澤龍彦、加藤郁乎、松山俊太郎といった昭和ヒトケタ世代の怪人たちに遊んでもらったときの楽しい記憶が、私の体内に残っているせいかもしれない。2年前にイーストウッドと話したときも、どこか彼らと共通する気配を感じて、どきりとした覚えがある。
ラソーダにもこの人たちと似た匂いがあった。「名将」と呼ばれたことはまぎれもない事実だが、彼の戦略や戦術を思い出す前に、その稀有なパーソナリティを、つい思い出してしまう。いいかえればラソーダには、「頭脳よりも人柄を」、「知よりも情を」優先させる側面があったように思う。
「監督とは、鳩を手で包んでやるような仕事だ」
野茂英雄を受け入れ、引き立ててくれた人、という印象が、日本ではあまねく行き渡っていた。1995年、徒手空拳で海を渡り、わずか10万ドルの年俸で大リーグに飛び込んだ野茂を、70歳近いラソーダは両手を広げて受け止めてくれた。
実際、野茂の投球に喜びと力感が最も満ちあふれていたのは、95年から96年夏(とくに95年6月は、6勝0敗、防御率0.89)にかけてではなかったろうか。もちろん、96年9月17日に雨のクアーズ・フィールドで達成したノーヒッターを忘れることはできないが、このときも私はラソーダの影を感じた。彼が健康上の理由でドジャースの監督を辞任したのは、96年7月29日のことだった(最後の指揮は6月23日)。
ラソーダは、野茂が出現する前から名物監督だった。ハンプティ・ダンプティを連想させる体型。カラフルで、物議を醸しがちな発言。「私の身体にはドジャー・ブルーの血が流れている」という発言や「私の住所はドジャー・スタジアム、私の住まいはすべての野球場」という発言はあまりにも有名だが、もうひとつ私の記憶に残っているのは、「監督とは、鳩を手で包んでやるような仕事だ」という言葉だ。そのあとで、ラソーダはこう続けている。「包み方が強すぎると、鳩は死んでしまう。包み方がゆるすぎると、鳩は逃げてしまう」