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バスケ界の重すぎる称号“ネクスト・ジョーダン”に消えた天才たち…なぜレブロンは「23」のプレッシャーに勝てた?
text by
宮地陽子Yoko Miyaji
photograph byYoshihiro Koike/Yukihito Taguchi
posted2020/11/23 17:00
ジョーダン(左)とレブロンの胸には、「23」の番号が輝く
多くの“ネクスト・ジョーダン”が消えていったが…
若い選手がジョーダンと比べられたり、ジョーダンにちなんだ番号をつけることがどんな意味を持つかは、当時の雰囲気を知らないとわからないかもしれない。90年代のNBAでは、ジョーダンが全盛期に2度引退したこともあって、メディアもファンも“ネクスト・ジョーダン”探しに夢中だった。多くの選手が“ネクスト・ジョーダン”と期待されながら、そのプレッシャーにつぶされて、消えていった。いや、実際には消えていったわけではなく、冷静に振り返るとそれぞれ十分に輝いたキャリアを送っていたのだが、そう思えなかったほど、“ネクスト・ジョーダン”というのは重すぎる称号だった。
しかし、レブロンは最初から少し違った。ジョーダンと比較されても、「僕にとって憧れの存在。比較されるだけで嬉しい」と喜んでいたし、「23」をつけるプレッシャーもどこ吹く風。なかなか肝が据わったルーキーだった。
実際のところ、レブロンにとって「23」はプレッシャーではなく、心の支えだった。バスケットボールに夢中になった原点で、つらいことも多かった子ども時代に、毎日の支えとなった光でもあった。小学生の頃にジョーダンのプレーを見て、魅了されてバスケットボールを始めたレブロンは、友達といっしょにその頃流行っていたCMソングをよく口ずさんでいたという。「アイ・ワナ・ビー・ライク・マイク(マイクのようになりたい)」という歌にのせて、子どもたちが真剣になってジョーダンのプレーを真似するテレビ・コマーシャルだ。
若いシングルマザーのもとで育ったレブロン
若いシングルマザーのもとで育ったレブロンは、子どものころは貧しく、知り合いの家を転々として生活するような子ども時代を送っていた。華やかさとはほど遠い、オハイオ州アクロンの町で、凍えるような冬を送るなか、支えとなっていたのはバスケットボールであり、ジョーダンへの憧れだったのだ。
去年、キャリア通算得点でジョーダンを抜いた後に、レブロンは当時を振り返って、こんなことを言っていた。
「オハイオ州アクロンの多くの子供たちにとって、ポジティブな影響を与えてくれるもの、刺激になることが必要だった。僕にとっては、MJがそういう存在だったんだ。
友だちといつも、MJのことばかり話していた。屋外のコートで、屋外用のボールを使って、雪や雨の中で、僕らはみんなMJになりたがっていた」