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力道山から始まった文体58年の歴史 ベストバウトは藤波vs.猪木、美空ひばりも歌った
posted2020/09/22 20:00
text by
門馬忠雄Tadao Monma
photograph by
Moritsuna Kimura/AFLO
1964年の秋、筆者は東京スポーツ新聞の駆け出し記者として、ボクシングと一般スポーツを担当していた。あの東京オリンピックでは、水球とバレーボールの雑感スケッチなど、あらゆる取材に忙殺された。
10月12日は痛い思い出だ。その日、私は“東洋の魔女”と呼ばれた女子バレーボール日本代表のルーマニア戦を取材するために、駒沢体育館に向かった。ところが、会場で試合をしていたのは男子の日本代表だった。
「バカヤロウ! 何やってんだ!」
デスクに怒鳴られ、“東洋の魔女”たちの姿はテレビで観ることになった。会場は、横浜文化体育館だった。
力道山率いる日本プロレスの興行から
9月6日、横浜市民に「ブンタイ」と呼ばれて親しまれた多目的アリーナ「横浜文化体育館」が、老朽化に伴って閉館した。昭和、平成、そして令和と、3時代にわたってスポーツ界を彩った名物会場が、58年の歴史に幕を下ろした。
文体は、横浜港開港100年の記念事業の一環として、1962年5月11日に開館した。私が東京スポーツに入社したのが62年3月だから、ほぼ同時進行のキャリアだ。プロレス担当記者としては、東京・水道橋にある後楽園ホールがセカンドオフィスならば、文体はサードオフィスのような感覚だった。
文体が、イベント会場として初めて使われたのは5月23日、力道山率いる日本プロレスの興行だった。第4回ワールドリーグ戦が行われ、噛みつき魔フレッド・ブラッシーの初来日で沸き返ったという記録がある。そのプロレス初興行から58年、文体のラストを飾ったのが力道山最後の弟子、グレート小鹿会長率いる大日本プロレスというのも、何かの縁だろう。