オリンピック4位という人生BACK NUMBER
<オリンピック4位という人生(13)>
北京五輪 バド女子スエマエペア
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byAFLO
posted2020/07/19 09:00
中国ペアを倒し、北京五輪で4位に入賞した“スエマエペア”。2人の活躍が現在の日本バドミントンの隆盛に繋がっている。
オグシオの大きな背中を追いかけ。
青い色調に統一されたアリーナの真ん中に照明を浴びたライトグリーンのコートが浮かび上がっていた。そこだけが特別な非日常の空間であるかのように。
最終第3ゲーム前のわずかな静寂の中で、末綱はかつてない感覚にとらわれていた。
《このままずっと続けていたい、終わりたくないというような、そんな感覚でした》
高く苦しい壁に挑んでいるはずなのに、その実感がまるでないのだ。
壁にぶつかっていくこと。ありったけをぶつけること。振り返ってみれば、このオリンピックまでもそんな道のりだった。
末綱と前田にとって国内においての壁は「オグシオ」だった。当時の日本バドミントン界で小椋久美子と潮田玲子のペアは競技の代名詞であり、シンボルだった。
国内最高峰の全日本選手権を2004年から連覇し続け、一方でテレビに出演し、写真集も出し、広告塔にもなっていた。
末綱と前田はオグシオの大きな背中を追いかけ、反骨心をぶつけてきた。
例えば、末綱はオリンピックが近づくにつれて自分たちが「スエマエ」と呼ばれることが嫌でたまらなかった。
《なんかオグシオという言葉に乗っかっている、乗っけられているような気がして、自分たちのことは名前で呼んでほしいとメディアの人には言っていたんです》
前田は代表の練習から常に横目でオグシオを見て、つけ入る隙を探していた。
《私の中ではもうバッチバチのライバルでした。練習のとき以外に接触することはありませんでしたし、練習ではとにかくオグシオさんより一本でも多く走る、一回でも多く振ってやると思っていました》
五輪の選考レースは日々、心身を削るようなものであった。複数のペアが日本代表として国際大会を転戦しながらポイントを競う。ホテルもバスも練習もライバルと同じ。呉越同舟の緊張とストレスの中で、食べても食べても心臓から痩せ細るように体重が落ちていく。末綱と前田は代表で戦うたびにガリガリになって戻ってきた。
その中でオグシオという壁に反骨をぶつけることが動力になった。その果てによう
やく、小椋と潮田に次ぐ2番手で北京の切符を手にしたのだった。
そして今、日本の選手がだれも越えたことのない、世界でもっとも巨大な壁にぶつかっている。そこに亀裂を生じさせている。その意識のないままに……。
「まだ終わりじゃないですよね!」
第3ゲーム。限りなく無心のうちに繰り返されたラリーの果てに、末綱と前田はマッチポイントを手にしていた。
20-14。
気づけばマレーシアでの、あの信じられないような敗戦と同じ状況になっていた。そこまで何も望んでいなかったふたりの前には意識せずにはいられない、望まずにはいられないものがぶら下がっていた。
あと1点――。客席の静けさは、これから起こることにゴクリと生唾を飲むような緊迫へと変わっていた。
前田がサーブを打とうと構えた。ところが、そこで何かを怖れるように後ろにいる
末綱を振り返って叫んだ。「まだ終わりじゃないですよね!」。前田はまた自分に訴えかけるように叫んだ。
「しっかりラリーしないとダメですよね!」
末綱にはそうせざるをえない前田の気持ちがよくわかった。あの敗戦の傷は末綱の胸にもはっきりと残っていたからだ。
《あのマレーシアでのゲーム、私はあと1点になった瞬間、こんなに強い相手に勝っちゃうの? と思ってしまったんです。急にあと1点が早く欲しくなって、早く終わりたいと思ってしまった。そこから、あれよあれよという間に逆転されていました。あんなことは人生で初めてでした》
あの日のことは末綱の脳裏にも、ずっとあった。だからだろうか。照明に浮かぶ北京のコートでは自分のやるべきことがはっきりわかった。末綱はしきりに後ろを振り向いて叫ぶ前田に近寄ると、ラケットでポンと尻を叩いてこう言った。
「うん。そうだね。わかったから。もう打っていいよ」
その言葉で、前田はネット越しの王者へと向きなおった。楊維はあの日のように鉄仮面をつけていた。ただ、この日の前田はそれに目を奪われることなく、怖れることもなく、シャトルを放った。