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中国大返しを伝説にした情報戦と
「足軽=トレイルランナー」説。
text by
山田洋Hiroshi Yamada
photograph byAFLO
posted2020/07/19 20:05
月岡芳年の「山崎大合戦之図」。この戦場に秀吉軍がたどり着いたのには、膨大な準備があったのかもしれない。
光秀を引きずり下ろす最後のチャンス。
本能寺の変の一報を受けた秀吉はなぜ、中国大返しを即断即決するに至ったのか。
「本能寺の変の前、京都を任されていたのは明智光秀でした。比叡山延暦寺の焼き討ちを実行した光秀は延暦寺の監視も兼ねて琵琶湖畔の坂本に居城を得ます。光秀が着々と武功を上げていく中で秀吉は焦っていたはずです。
毛利攻略で自身の存在価値を高めようとしていたときに起きたのが本能寺の変でしたから、このままでは光秀に全て持っていかれ、自分の居場所がなくなる。現に秀吉の居城は琵琶湖の東にある長浜城で、妻のねねが暮らしていましたが、完全に光秀の支配下に入ってしまいましたので、秀吉にとって光秀討ちは失敗すればすべてを失う、背水の陣に等しい状況だったのです」
信長配下の武将たちは、チームメイトであり、ライバルであった。生き馬の目を抜くような時代、秀吉には、中国大返しが未来の自分の活路を見出すたったひとつの、そして最大のチャンスとうつったのかもしれない。
「誰よりも早く京都に帰り、光秀を叩きのめすことが重要になります。万単位の軍勢の多数を占める足軽が足手まといになってはならないわけです。飯を食わせ、先にお金を渡し、荷運び役を雇って身軽になった足軽を、軽装備で野山を駆けるトレイルランナー化させたのかもしれませんね」
実はルートは判明していない。
中国大返しのルートが完全に判明しているわけではない。専門家の間でも諸説あるようだが、どうやら旧山陽道(西国街道)だけではなかったようだ。
「メインルートは旧山陽道だと思いますが、瀬戸内海ルートと山ルートもあったようです。海は大きな荷物を運んだり、先発隊であったり、物流用の仕様だったと思われます。一方、山ルートですが、軍勢を分散させて移動させる意図があったのかなと思います」
現存する旧山陽道はコミュニティサイトなどにそのコースや標高がGPXデータとして挙げられている。一方の山ルートは、未解明だ。
「毛利攻めを行う1年前、秀吉は鳥取を攻めていました。その際も古城を整備しながら進軍していた形跡があり、加西市にある小谷城址が当時の姿を残しています。鳥取攻めでも利用した城にいたるルートを、リスクヘッジを兼ねた分散ルートとして活用したと考えられるかもしれませんね」
山ルートとなると、移動への負荷はよりかかる。まさにウルトラトレイルそのものだ。秀吉は時差スタートするウェーブスタートのように、大軍勢をいくつかのグループにする分散移動を行ったのかもしれない。