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宝塚記念馬サイレンススズカの記憶。
武豊が見たサラブレッドの「理想」。
text by
片山良三Ryozo Katayama
photograph byTomohiko Hayashi
posted2020/06/27 11:45
胸のすく大逃げからの快勝、圧勝でファンの記憶に残り続けるサイレンススズカ。しかし、GI勝利は宝塚記念だけだった。
サイレンススズカは「偶然」から誕生した。
サイレンススズカは「偶然」から誕生した。
父は、日本の競馬の進化の針を、たった1頭で数十年分も一気に進めたと言われる、不世出の名種牡馬サンデーサイレンス。
サイレンススズカは、サンデーサイレンスの3シーズン目の産駒だ。ノーザンテーストの時代('82年~'92年までリーデイングサイヤー)がゆるやかに終焉を迎えつつあった'94年5月1日に、この世に生を授かった。
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サンデーサイレンスの初年度産駒はこの年にようやくデビューを迎えており、1年前の種付けの時点では、次の時代を引き継ぐ('95年から現在に至るまで、リーディングサイヤー継続中)偉大な種牡馬になるとは、まだ誰も予想できていなかった。
稲原牧場が冒険的な大枚をはたいて輸入した。
母ワキアは、当時米国で最も人気が高かったミスワキの子。これを北海道・平取町の、決して大規模とはいえない稲原牧場が、冒険的な大枚をはたいて輸入した。
後のサンデーサイレンス産駒の隆盛を知っていれば、素直に配合すればいいのにと思うわけだが、当時は事情が違う。サイレンススズカが生まれる1年前、ワキアの種付けの相手として選ばれた種牡馬は別の馬だった。
米国からやってきたサンデーサイレンスが日本で種付けを始めたのは'91年。この年にはヨーロッパからバイアモンという種牡馬も導入されていた。
競走成績こそ良かったものの、特に母系の血統が貧弱と見られていたサンデーサイレンスに比べて、こちらは、クランツクを狙える重厚な血統背景が売り物だった。現在の稲原牧場を切り盛りしている稲原昌幸はこう回想する。
「当時のバイアモンは、まさに鳴り物入りだったんですよ。うちはシンジケート株をいち早く購入していたので、特にそう感じていたのかもしれませんが(笑)。ですから、一番期待している繁殖牝馬にバイアモンを配合するのは当然過ぎる選択でした」
ところが、バイアモンの種付けは非常にスムーズに行なわれたものの、2回続けて不受胎。熟考の末に代役に浮上したのは、この当時うなぎのぼりに評価が上がっていたトニービン(結果的に'94年のみリーディングサイヤー)だった。しかし、こちらはあまりにも人気が沸騰して、ワキアが発情を迎えた当日には空きができなかった。