草茂みベースボールの道白しBACK NUMBER
阪神の歴史を左右したかもしれない
「6時間26分」の日本一長い激闘。
text by
小西斗真Toma Konishi
photograph byKazuaki Nishiyama
posted2020/06/03 11:40
1992年9月11日阪神対ヤクルトは、6時間26分の激闘の末、引き分け再試合となった。写真は当時両軍を率いていた中村勝広(右)と野村克也。
もう1つの歴史を夢想する楽しみ。
現実の歴史では野村ヤクルトが栄華を極め、阪神は1985年の日本一の次に優勝するのは2003年。この空白期を猛虎の教科書では「暗黒時代」と教えているが、つかの間、希望の花が咲いたのがこの'92年だった。優勝監督となっていたら、'93年以降の低迷に変わりがなくとも球団における中村氏の影響力は確固たるものとなる。のちの野村、星野仙一といった再建をアウトソーシングする動きには歯止めがかかったことだろう。
そしてこの'92年のドラフト会議ではダイエー、中日、巨人とともに松井秀喜を1位指名した。リーグ成績が下位から順に抽選箱に手を差し入れたが、中村監督は3番目で、長嶋茂雄監督は残りくじ。実は巨人と阪神は同率2位だったが、前年の成績により阪神が3位扱いとなった。ということは、勝ちきっていれば長嶋が先で中村が後。ミスターならつかみ取っていた気はするが、松井の所属球団すらも変わっていた(少なくとも当時の松井は阪神を熱望していた)なんてことすら考えられる。
「本能寺の変がなければ」
「関ヶ原で石田三成が勝っていたら」
歴史にイフはないと言われるが、もう1つの歴史を夢想する楽しみはあっていい。あの日、八木の打球が普通に跳ね返っていれば……。中村、野村両監督、平光審判のお三方は、すでに泉下の客となられている。それぞれにも思い入れのある6時間26分だったことだろう。