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伝説となった2008年バスケ全中決勝。
富樫勇樹と田渡凌、「風と刀」の死闘。 

text by

青木美帆

青木美帆Miho Awokie

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photograph byIzumi Nakagawa/NIPPON BUNKA PUBLISHING

posted2020/05/02 11:50

伝説となった2008年バスケ全中決勝。富樫勇樹と田渡凌、「風と刀」の死闘。<Number Web> photograph by Izumi Nakagawa/NIPPON BUNKA PUBLISHING

新潟で行われた2008年の全中決勝。本丸中の富樫勇樹(右)は36得点、京北中の田渡凌(左)は39得点をあげ74-68で本丸中が勝利した。

富樫は無意識に力をセーブしていた。

 バスケットへの情熱は確かなものだった。

 まだおむつが外れていない頃から小さなリングにシュートを打ち続け、体育館観覧席の最前列で、わき目もふらずに試合を見続けた。

 ただ、中学校最高峰の大会、その決勝にあっても、富樫は同世代と明らかな力の差を感じとり、無意識に力をセーブしていた。

 当時本丸中の監督をしていた富樫の父の英樹さんは、後にこう証言している。

「あいつはいつも帳尻を合わせてプレーしていた。試合展開に余裕があるときはまわりに攻めさせて、さぼって、オイシイところだけ出てくる(笑)。100パーセントの力でプレーすることなんてなかったんじゃないかな」

 富樫は全中終了後、アメリカの強豪・モントロス・クリスチャン高校への留学を決めた。日本バスケ界の随一の名将・中村和雄の猛プッシュを受け、本人が「その気になった」格好だ。

 英樹さんの恩師でもある中村は、小さいころから富樫の才能をよく理解していたという。同時に、富樫の心の奥に存在した”退屈”や”渇き”といったものにも気づいていたのかもしれない。

人前でプレーするのが嫌すぎて……。

 中学生のころの富樫は、実力に加え、強烈な寡黙さでも有名だった。

 メディア関係者はおろかチームメートであっても、会話は基本的に「はい」か「いいえ」。英樹さんも、「中学3年間、家でも学校でもひとつも口を聞いたことがない」とぼやいていた。

 小学校低学年のころ、人前でプレーするのが嫌すぎて、ユニフォームを持った母に追いかけ回された……。

 そんな逸話があるくらいの超シャイな少年が、アメリカの強豪高校に留学すると聞いたときは他人事ながら心配になったが、富樫は1年次からロスター入り。2年次からはスタメンとして起用されることが増え、そのシーズンの全米ランキング2位入りに貢献する活躍を見せている。

 当時はまだ、海外の試合動画を気軽に見られる時代ではなかった。富樫がどんなプレーをしているかはわからなかったが、コーチやチームメートと意思疎通のとれないポイントガードが絶対に試合に出られないことは、誰にでも想像できることだ。

 後の取材で、富樫は当時を「やらなきゃバスケができない状況だったので、とにかく毎日頑張っていただけ」と振り返っていた。「バスケがしたい」という強い欲求に従い、富樫は自らの殻を破ったのだ。

【次ページ】 「家族にも『よくしゃべるようになったね』と」

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